和解学の創成

  • 1872年東京 日本橋

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  • 現在北京 前門

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  • 現在台北 衡陽路

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  • 2006年ソウル 南大門

  • 1950年ソウル 南大門

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香港への難民の流入

第二次大戦後、香港は冷戦と国共対立という厳しい国際環境に直面することとなった。香港政庁は、大陸の共産党と台湾の国民党のいずれも非合法化する中立化戦略によってこれに対応し、その結果、香港は大陸からの侵攻を受けることもなく、近隣に比して相対的な政治の安定と自由を実現した。

このため、香港は主として中国大陸から大量の難民を受け入れることになった。その数は国共内戦期に特に多く、終戦時に60万人であった人口は、1950年には200万人に迫った。その後も毎年10万人程度の人口増加が長年続き、特に大陸で大躍進政策の失敗による飢饉の発生時や、文化大革命の混乱期には流入が増えた。香港は1980年まで、不法入境者をも比較的寛大に受け入れる政策をとった。

難民は政府にとって統治のコストであった。特に、劣悪な住環境は、暴動などの社会不安の一因ともなった。他方、難民は戦後の香港の発展の原動力となった。迫害を逃れて主に上海周辺から流入した資本家が工業を興し、難民は工場で安価な労働力となった。こうして、朝鮮戦争に伴う中国への国連・米国の経済制裁により、中継貿易港としての地位を失った香港に、新たに工業基地への道が開かれた。懸命に働いた難民たちは、やがて多くが中産階級へと上昇し、脱植民地化後の香港各界の担い手となった。また、香港の文化を支えたのも難民である。儒学などの思想・学問や、新聞・雑誌等の出版など、大陸では困難になった事業は香港に拠点を移して継続され、情報センターとしての香港の地位を支えた。

こうした香港の歴史は、難民の受け入れが、長い目で見れば益になるという好例である。アジアNIEsの一角と称された香港の発展は、難民の力なしに説明できない。一方、一時避難のつもりで香港に来た難民たちが結果的に香港に定住し、かつ世代交代が進む中で、難民・移民都市としての香港の性質も変容しており、香港を仮住まいではなく自身の家と見て、強い愛着を持つ者も増えている。また、香港社会が全ての難民・移民に寛容であるとも言いがたい。ベトナム難民は1980年代に排斥されたし、現在も大陸からの新移民や、アジアからの労働者に対しては強い差別が存在する。

倉田 徹(立教大学法学部 教授)

 

関連キーワード:香港、冷戦、難民、アジアNIEs

 

一次資料

難民の地位に関する条約(難民条約)

朝鮮戦争に関する安保理決議(1950年6月25日の決議)

 

参考サイト

香港政府・人口推計

 

主要参考文献

倉田徹・張彧暋『香港――中国と向き合う自由都市』岩波新書、2015年

陳秉安『大逃港』(修訂本)、香港中和出版、2013年

中嶋嶺雄『新版 香港――移りゆく都市国家』時事通信社、1997年