1872年東京 日本橋
1933年東京 日本橋
1946年東京 日本橋
2017年東京 日本橋
1872年8月〜10月北京 前門
現在北京 前門
1949年前後北京 前門
1930年代北京 前門
1895年台北 衡陽路
1930年代台北 衡陽路
1960年代台北 衡陽路
現在台北 衡陽路
1904年ソウル 南大門
2006年ソウル 南大門
1950年ソウル 南大門
1940年代初ソウル 南大門
村山内閣時代の1994年度に準備が開始され翌年から10年間、合計900億円を投じて継続された歴史研究支援と人的交流拡大のための計画。初年度予算は81億円で、歴史図書収集と招聘・派遣フェローシップからなる9の歴史研究支援事業、23の人的交流事業の2つを柱とした。2001年度からはアジア歴史資料センターも三番目の柱として設置された。1994年8月末の村山談話では、慰安婦への償い金事業、サハリン在住朝鮮人帰国支援事業、台湾の確定債務払い戻し事業への意欲も表明され、社会党が長年掲げてきた戦後補償政策と、自民党が宮沢内閣時代の施政方針演説で示した「過去の歴史認識の問題」をアセアンやAPEC加盟国との国際交流事業と結びつけて展開する政策とが融合した性格を有した。また、アジア歴史資料センター設立に際しての有識者会合開催と市民からの意見聴取や、運動家、学者、大学院生、専門家が、事務局員や運営委員として参加登用されたことは、政府と民間の協力事業を先取りした。村山談話では「侵略行為や植民地支配」が「耐え難い苦しみと悲しみをもたらした」という歴史認識と、「深い反省の気持ちに立」って「歴史を直視」するという決意表明が行われたが、それにもかかわらず、予算案の確定作業は、総理府・総務庁・外務省・文部省・文化庁の5府省庁に丸投げされ、各省庁傘下の財団法人・特殊法人等の個々の既存事業の拡張という形で事業内容が固定されてしまった。
個別事業としては、歴史図書の集中的管理やフェローシップ拡大によって大きな成果が挙がったものの、例えば、国際交流基金のアジアセンターと知的交流事業、日中友好会館の日中歴史研究センター、日韓文化交流基金の図書センター、財団法人交流協会の日台(湾)交流センターの間では、いわゆる歴史認識問題に対して地域形成的観点から多国間の交流を推進するような事業を合同で企画したり、対内対外文化政策の調整という視点から教科書問題を地域横断的に検討したりするような企画が可能であったと考えられるが、「計画」に値する整合性や調整機能を欠いていたことは惜しまれる。それにもかかわらず、アジア歴史資料センターが計画終了後にも存続し、一部事業が継続されたことは画期的なことであった。
(浅野豊美)