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香港民主化と経済発展

香港民主化問題

植民地としての香港の歴史のうち、1980年代までの140年ほどの間、民主化はほとんど進まなかった。総督が行政評議会(閣議に相当)や立法評議会(議会)のメンバーを全て任免できる、19世紀型の独裁体制が続いていたのである。

民主化のチャンスは第二次大戦後にあった。マーク・ヤング総督は1946年、新たに「市議会」を設立して、その3分の2を主に華人の有権者が投票で選出するという改革案を提起した。しかし、国共内戦で大陸から大量に難民が流入している状況下で、香港で民主化を行えば、大陸の政治的影響が香港に入り込み、香港を混乱に陥れるとの不安が浮上し、改革は頓挫した。

その後、共産党政権が大陸で成立すると、香港は軍事的劣勢の下でこれと対峙する必要に迫られた。香港の利用価値を認めた共産党は香港に侵攻することはなかったが、イギリスは共産党政権への配慮を欠けば、いつでも共産党の香港「回収」という決定を招きかねないという状況下での統治を迫られた。共産党幹部はイギリス関係者との接触の際、しばしば香港の民主化に強く反対する意見を伝えていた。

転機は1970年代末に訪れた。1979年にマレー・マクルホース総督は香港総督として初めて北京を訪問し、鄧小平と会談した。鄧小平はこの際、新界の租借期限である1997年に、香港を回収する意図をほのめかしたとされる。1981年、香港政庁は、地区行政に助言を与える「区議会」の設置を開始し、1982年3月4日、その一部議員の選出のために、香港史上初めて普通選挙が実施された。1984年に返還交渉が妥結し、中英共同声明で香港の1997年返還と、返還後の「一国二制度」方式の採用および香港人による香港統治(「港人治港」)の実施が決定されると、イギリスは1985年から立法評議会でも間接選挙を開始した。

これに対し中国政府は、中英共同声明で「現状維持」を約束したイギリスが現状変更を行っているとして、強く反発した。両国は交渉の末、1997年までの民主化のペースをイギリスが遅らせる代わりに、中国はイギリスが返還前に選んだ立法評議会の議員を引き継ぎ、返還後も民主化を続け、最終的には行政長官(返還後の政府トップ)と、立法会(返還後の議会)を全面的に普通選挙で選出することで合意した。

しかし、1989年の天安門事件の発生により、事態は変化した。西側諸国は一斉に中国に経済制裁を科し、香港では将来を悲観した者が大量に欧米などに移民し、頭脳流失が問題となった。中国政府に強く抗議する民主派は、1991年の初めての立法評議会の一部議席で実施された普通選挙において、地滑り的な圧勝を収めた。中国政府への不信感が圧倒的に強まる中、民主化は反共と結びつき、「民主抗共」が論じられた。

このような情勢を前に、イギリスは1992年、保守党の大物政治家であるクリス・パッテンを「最後の総督」として香港に送った。パッテンは就任早々に急進的な民主改革を打ち出し、香港市民から大いに歓迎された一方、中国から激しい反発を受けた。中国は1997年7月1日の返還と同時に、パッテン改革に基づく選挙方法で選出された議会を解散させ、代わりに全議席を事実上中国が選出した臨時立法会を設置して、選挙制度を民主派に不利なものに変更することなどを決定し、民主化は一時的に中断された。しかし、臨時立法会が1998年に解散されると、「一国二制度」の成功を世界に示す必要がある中国は、香港の民主化を再開し、立法会の普通選挙議席が漸増した。

民主派は行政長官と立法会の早期全面普通選挙化を求め、アジア通貨危機による不動産バブル崩壊と、重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行による観光・小売業の不景気など、政府への不満が頂点に達した2003年の返還記念日には、50万人規模のデモによって政府に民主化を迫った。中国政府はこれに対し、返還後のミニ憲法とされる香港基本法を解釈して、民主化問題の決定権を事実上北京が持つ制度を設けた上で、早期全面普通選挙化を却下した。

その後中国政府は2007年、2017年の行政長官選挙の普通選挙化を可とする決定を行った。しかし2014年、中国政府はこの普通選挙に出馬する候補者を、北京の意向を反映する委員会で事前に選別し、民主派が事実上行政長官選挙に出馬できなくなる制度を導入することを決定した。民主派と市民の多くがこれを「ニセ普通選挙」と称して強く反発し、公道を79日間占拠した「雨傘運動」などを起こしたが、中国政府に妥協を強いることはできなかった。

民主化問題の背景:経済発展をめぐる制度の競争

現在、普通選挙化は頓挫しており、民主化の先行きは見通せない。香港基本法は普通選挙化を明記しており、北京も含めて将来的な普通選挙化は共通理解となっている。しかし、民主派が求めるような、国際人権規約に基づく、被選挙権も含めた平等な普通選挙に対しては、中国政府は西側諸国による共産党政権転覆の陰謀として強く抵抗する。近年中国政府は、高度の自治や自決を求める議論を香港独立論として非難する論理を前面に押し出し、2016年以降は「独立派」と見なした候補者に、立法会やその他の議会選挙の出馬資格を与えない門前払いも行っている。香港の民主化はむしろ後退局面に入っているとも見られる。

政治要因による候補者の事前選別は、中国の人民代表選挙で行われている仕組みであり、行政長官と立法会などの議会でこの制度が導入されることは、イギリス式のデモクラシーの移植から始まった香港の民主化が、「中国式」民主の制度化へと変容していることを意味する。これはまた、世界規模で現在展開されている、市場経済と自由民主主義の「ワシントン・コンセンサス」と、国家資本主義と権威主義の「北京コンセンサス」の体制の競争の表れとも言える。

このため、民主化問題を含む香港問題は、経済発展に有利な政治制度をめぐる競争という、大きな環境に一貫して左右されており、今後もそうであると考えられる。第二次大戦後、中国が社会主義の非効率や、大躍進政策・文化大革命などの政治的混乱に翻弄される中、香港は安定した政治環境の下で、工業化と急速な経済発展、さらに国際金融センター化を実現し、アジアNIEsの一角を占めるに到った。中国が返還に際して「一国二制度」を採用したことは、大陸と香港の巨大な経済格差を前に、事実上資本主義の優位性を認めるものであった。したがって、1980年代の民主化開始当初、中国の近代化のためにも香港の繁栄と安定を必要とした中国は、イギリスが求める民主化を不承不承受け入れた。

しかし、民主化の完成を見ずに迎えた1997年の返還後は、香港経済の停滞と、中国の国家資本主義化による持続的な成長により、むしろ中国が香港経済を支えているとの認識が広がった。中国政府は近年、香港の繁栄と安定よりも、中国の国家の安全を強調しており、自身の制度に対する自信を強めている。香港経済に対しても、中国は伝統的な自由放任に疑念を呈し、香港を中国の国家資本主義を支える一つの要素として中国経済に組み込み、政府主導でハイテク基地化を進めようとしている。

反共的な土地柄の香港において、異論を排した効率的・集中的な決定を重視するならば、民主的な議論や多元性の尊重は難しい。米中が体制をめぐる「新冷戦」に入る可能性も論じられる中で、香港の政治・経済体制は岐路に立っている。

倉田 徹(立教大学法学部 教授)

 

関連キーワード:イギリス、脱植民地化、民主化、一国二制度、港人治港、雨傘運動、アジアNIEs

 

参考サイト

香港政府「基本法」

香港政府「行政長官普通選挙」

 

主要参考文献

倉田徹『中国返還後の香港――「小さな冷戦」と一国二制度の展開』名古屋大学出版会、2009年

強世功・袁陽陽編『香港立法機關關於政制發展的辯論』第一~三巻、三聯書店、2017年

Lo, Shiu-hing, The Politics of Democratization in Hong Kong, Macmillan, 1997.

So, Alvin Y., Hong Kong’s Embattled Democracy, The Johns Hopkins University Press, 1999.