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「済州4・3」70周年、大阪での取り組み25年から見えてきた家族の記憶

済州四・三事件70周年犠牲者慰霊祭実行委員会:大阪市生野区在住

張征峰(チャン・チョンボン)

 

1993年4月大阪市生野区のKCC会館ホールで『済州島「四・三事件」追悼の集い』を催した。東京の済州島四・三事件を考える会と共に準備した。当時同胞でも関心を持つ人は少なかった。当時事件に関する情報も圧倒的に不足していた(正確に言えば、済州島4・3事件を暴徒の事件と決めつけ、事件をタブーとした権力作用がつい最近2000年1月、「四・三特別法」制定、公布まで続いてきた)。事前に京都新聞が取り上げてくれた。金石範氏、金民柱氏、文京洙氏のパネルディスカッションだったが、論議が尽きずフロアからの体験談等も相次ぎ予定の時間を大幅に過ぎ進行に四苦八苦した。大阪では初めての公開的な追悼集会になった。以降も毎年学習会が継続、50周年からは予算や事務局体制が整備され、今では1世を中心に参加者が500名を越す大規模な慰霊祭となっている。

済州島四・三事件45周年追悼の集い(1993.4.3)

なぜ「済州4・3」に関わろうとしたのか。当時事件を十分に認識していた訳ではない。知らないから関わった。それまで済州に関心がなかった。韓国民主化運動には関心があったが、済州の歴史を知ろうとしなかった。辺境の地・済州島とみなす差別意識が自分のなかになかったとは決して言えない。

最近知ったが、私が幼少の頃、北朝鮮への帰国運動が始まると、父が帰国を決めてしまった。母方親類が北の状況は良くないと察知し、猛反対で乗船しなかった。以降も下請工場製造業を家族全員で担ったが生活は困窮。民族差別が当たりまえの日本社会で家族を背負って生きる在日1世の父の不安、やるせなさ、とりわけ仕事上のストレスは家族への暴力へ向かわせた。生活苦のなか、故郷の土地を済州の家族に譲渡し、学用品など仕送りする父に、私たち家族への愛情はないのかと母、子ども同士で非難したりもした。

幼少の記憶はトラウマになっている。当時の済州は1世である尊敬できなかった父のイメージと重なる。

事件に関わるきっかけは外登法運動に関わる中知り合った新幹社の高二三さんらの熱心な働きかけが大きい。大阪は同胞が多く、生野区は済州出身者が多い。事件のことを知りたい。45周年の節目で集いを催すことで、得体のしれない闇に包まれている事件のタブーを解きたいとそう思った。

2001年父親の葬儀の通夜で父方の親類が「あんたのお父さんは当時は警察官で、「済州4・3」の前の年にあった三一節集会でデモ参加者へ警察官が発砲等したので武装隊から警察官への報復があるからと兄弟が日本に逃がした」と教えてくれた。父は武装隊が1948年4月3日蜂起する前に妻と2歳の娘、父母、兄弟を置いて解放前から行き来していた大阪へと逃れた。朝鮮籍であったこともあり1978年頃、民団の母国訪問墓参団に参加するまで済州に帰郷できなかった。

済州島から逃れたが、大阪で郷里、済州市三陽里の親睦会には熱心に活動をした。南北分断が深化するなか、帰れない済州。親睦会は父にとって済州だった。

生前、恐る恐るなぜ警察官になったのかと尋ねたら、「1945年8月は光州市で日本軍として解放を迎えた。警察官を募集していたので応募したら採用された。公務員だし安定して生活ができると思った。」とだけ言った。

1998年1月大阪で「済州4・3」を描いた映画『レッド・ハント』(※注)が上映された。体験者の証言が続くのだが父の兄・張五林が突然登場。1947年3月1日観徳亭広場での集会、デモに参加していた。「一番後ろの方を歩いていたもんだから…。銃で撃たれて…。弾は首のところを貫通したんだ。これが弾をうけたときの傷じゃ。」と首の傷跡をみせた。1986年初めて済州島を訪ねた際に観徳亭を案内してもらったが、傷のことも事件のことも話してもらえなかった。映画の後立ち上がれなくなった。父は2001年に亡くなったが、最後まで事件前後のことは一切語らなかった。私が「政治難民」の子どもである事実を知ったのは本当に最近のことだ。

25年を経過した今、沈黙をかかえて亡くなった父ら死者と対話しながら、記憶を頼りに、国境をこえて、か細く頼りないが、済州との関係を紡ぎ直す歩みのなかにいる。

昭和18年12月当時、日本軍人(左が父:21歳頃)

 

在大阪三陽張氏親睦会(1966.4.17.)

 

※注:『RED-HUNT 日本語版シナリオ』(東アジアの冷戦と国家テロリズム事務局:1998年刊)P4