和解学の創成

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朝河貫一学術協会 第 6 回研究会、武藤秀太郎先生による「朝河貫一と中国歴史学」の内容を投稿させていただきます。

武藤 秀太郎「朝河貫一と中国歴史学」

朝河貫一学術協会 第 6 回研究会 2019.10.19

はじめに

 今日、 ‘history’ の訳語として用いられている「歴史(学)」。西洋に由来する学問分野 の訳語である漢字語には、大きく二つのタイプがある。一つは、哲学(philosophy)や美 学(aesthetics)、体育(physical education)のように、翻訳を通じ、新たに創造された語 である。もう一つは、もともと存在した概念をあてはめる形で適用したものである。政治 (politics)、法律(laws)、倫理(ethics)、物理(physics)などの名称がこれにあたる。歴 史も、その用例を『三国志』にみとめることができ、人間にまつわる過去の出来事といっ た意味で用いられた語である。

この「歴史」が元来もつ意味は、‘History’ の原義ともほぼ合致しているようにみえる。 しかし、訳語として「歴史」が ‘History’ へと架橋された際、その内包と外延は大きな変 容を余儀なくされた。その具体的な態様は、帝国大学における「史学」の設立過程にみと めることができる。

帝大文科大学に「史学科」が設置されたのは、1887 年 9 月のことであった。その翌年 10 月には、内閣臨時修史局の事業が帝国大学へと移管され、臨時編年史編纂掛が設けられ た。ここで目論まれた「史」とは、明治新政府の正統性を明示しようとする官選の歴史で、 いわば中国の正史にならったものであった。重野安繹、久米邦武、星野恒といった臨時修 史局の漢学者らも、移管にともない、文科大学教授へと転じ、1889 年 6 月に「国史科」 が新設された。こうした帝国大学における「史学」の成り立ちは、「歴史」の連続性を表す ものといえる。

「史学科」と別に、「国史科」が置かれた理由としては、「史学科」のカリキュラムが西 洋史中心であったこともあげられる。実際、草創期の「史学科」で、「世界史」や「史学研 究法」を講じたのが、L. ランケの弟子であったドイツ人教師 L. リースであった。リース は、「国史科」の運営にも助力し、「史学会」の創設を後押しした。この史学会の初代会長 となったのが、重野である。重野は史学会創立大会で、「史学に従事する者は其心至公至平 ならざるべからず」と題した講演をおこなった。その内容は題名の通り、歴史研究におけ る「至公至平」の重要性を説いたものであり、そこには ‘History’、すなわちヨーロッパの 実証史学からの影響をみてとることができる。

以上のように「史学科」と「国史科」の二本立てではじめられた帝国大学の「史学」研 究にあって、中国史は「漢学科」で教えられていた。その後、中国もその一部とする「東 洋史学科」ができたのが、世紀をまたいだ 1910 年のことである。そもそも日本の有識者 が学ぶべき「歴史」とは、日本史よりも中国の正史であった。他方、「東洋史」という名称 に、中国、および「西洋史」であった ‘History’ を相対化させる意図があったことは明ら かであろう。その意味で、日本で生まれた「東洋史」は、「歴史」と ‘History’ が交錯した 縮図を表しているといえる。

この「東洋史」という名称の普及に、貢献があったといえる人物の一人が、桑原隲蔵で ある。興味深いことに、桑原が提唱した「科学的」歴史研究は、胡適が旗振り役となって 推進した「整理国故」運動に少なからぬ影響をおよぼしている。また、この「整理国故」 にともなう中国「封建制」をめぐる議論では、朝河の研究が大いに参考とされた。本報告 では、まずその具体的経緯についてみてゆくことにしたい。

桑原隲蔵(1871-1931)

福井県敦賀で和紙製造業を営んだ家に生まれる。幼少より勉学に優れ、京都府立中学校、 第三高等中学校を経て、1893 年 7 月に帝大文科大学漢学科へ入学した。中学時代より歴 史学をこころざし、「世界的歴史家 桑原隲蔵」などとノートに書きとめていたという。漢 学科を卒業した桑田は、大学院へと進学し、東洋史を専攻した。

桑原が指導をうけた教師に、坪井九馬三と那珂通世がいる。坪井の教授内容をうかがう 手がかりとしては、早稲田大学でおこなった講義をもとめた『史学研究法』(1903)があ る。「科学的研究法を史学に応用し聊か得たるところある」と序で記された『史学研究法』 は、基本的に E. ベルンハイムの『史学入門(Einleitung in die Geschichtswissenschaft)』 に即したものであった。息子の武夫によれば、桑原はランケを歴史家として尊敬し、晩年 まで書斎にランケの肖像をかけていたという。桑原の学術論文には、注の分量が多いとい う特徴がある。これも、ドイツの実証史学のスタイルにならったものといえる。

1894 年、中等教育に「東洋史」の科目が加えられた背景には、那珂の働きかけがあった とされている。桑原著、那珂校閲『中等東洋史』が公刊されたのは、1898 年のことであっ た。翌年には、中国語訳が上海の東文学社から出版されている。以後、桑原が執筆した東 洋史の教科書は、長年にわたり全国の学校で広く用いられた。

母校の三高、そして東京高等師範学校の教授をつとめた桑原は、1907 年 4 月より 2 年 間、文部省の命をうけ中国へ留学した。帰国後は、内藤湖南とともに、京都帝国大学文科 大学史学科の東洋史講座の初代教授をつとめた。ジャーナリズム出身で、清朝考証学を評 価し、「支那学」をうたった内藤に対し、桑原が「科学的」な見地から、清朝考証学に批判 的態度をとり、「東洋史」の名称にこだわるなど、両者の学風は多くの点で対照的であった。

【資料 1】羽田享による桑原隲蔵『東洋文明史論叢』(1934)の序

「我が国に於て、学術に関する論文中にこの脚注を多く用ゐることは、本來欧洲学界 に於ける体裁を受け入れたのであることは言ふまでもないが、内外博覧の博士は、欧洲 の東洋学者中でも特に独逸の学者の間に多く認められる此の種の整つた論述の形式を 賞讃せられ、論文の形はかく有りたいなどと語られたことから考へても、この方面から 受けられた影響も少くなかつたと思はれる。」

【資料 2】宮崎市定による桑原隲蔵評

「博士はよく「歴史の研究とは、事実をきめていくことだ」といわれた。歴史学の上 では、一歩一歩、動かない事実を確かめた上でなければ、研究成果を積み上げていくこ とができない。いわんや誤った認識の上に立って、どんな議論をしても役にたたない。 だから博士はしばしば中国の在来の学風の不正確さを批判して、「中国人の学者は頭が

悪い」とまで言われた。…博士はまた「自分のやっていることは東洋史であって、シナ 学とは違うものだ」と明言しておられた。そこで昭和五年、博士が還暦を迎えられた時、 知友門人が集まって各一篇を草して献呈した書名は、京都における伝統的な呼称にかか わらず『東洋史論叢』と題した。」(「桑原隲蔵博士について」桑原隲蔵『中国の考道』 はしがき)

「一見して無思想性と思われる自然科学も、実は偉大な科学者の思想によって指導さ れ、その方向が決定され、その線上に沿って今回の如き隆盛を見るに至ったのである。 桑原先生の歴史学も恐らく、このような信念の下に研究が進められたに違いない。そし て当時における歴史学の共通な約束とは、坪井久馬三博士によって講ぜられた、ベルン ハイム流のドイツ史学に外ならなかったと思われる。」(「桑原史学の立場」『桑原隲 蔵全集』月報 6)

桑田は 1917 年 3 月、『太陽』に「支那学研究者の任務」と題した文章を発表した。中 国語文献の読解能力はたいしたことない欧米の研究者たちが、注目すべき研究成果をうみ だしているのはなぜか。その理由として、桑原は彼らが「科学的方法」にもとづき、分析 していることをあげた。たとえば、漢代の「一里」がどのくらいに相当するかは、史料の 記述と確定的な地点間における実際の距離をてらしあわせることで、約 400 メートルと推 定が可能である。ただ、これら史料を活用するためには、まず史料批判をおこない、統一 した分類、順序でまとめるなど、「整理」をおこなう必要がある。この桑原の文章は、ほど なくして中国の『新青年』第 3 巻第 3 号(1917.5)へと訳載された。

【資料 3】桑原隲蔵「支那学研究者の任務」『太陽』1917 年 3 月

「支那の書籍は、大体から見渡して、未整理の状態にある。之を利用する前に、先づ 科学的方法で十分に整理を加へ、かく整理した材料を、科学的方法によつて、研究せな ければならぬと思ふ。

若し吾が輩の見る所に大なる誤がないならば、我国に於ける支那学研究には、この科 学的方法が、まだ十分に利用されて居らぬ様である。甚しきはこの科学的方法を無視し て居る様に、疑はれる点もある。科学的方法は西洋の学問のみに応用すべきものでない。 日本や支那の学問研究も亦、勿論この方法に拠らねばならぬ。」

「吾が輩の見る所に拠ると、我が国の支那史学者が、世界の学界に貢献すべき事業と して、尤も適当なるものは、支那歴代の正史の整理に在ると思ふ。」

この桑原の論文を読み、大きな感化をうけたのが、胡適であった。胡適の日記には、桑 原論文について、「その大旨は、中国学を治めるのに、科学的方法を採用すべきというもの で、至極まっとうな意見である」とし、「一里」を 400 メートルとした推定が、「歴史学の 一大発見」と評価されていた。また、中国の書籍が「整理」されておらず、利用に適さな いとの意見にふれ、「『整理』とは、すなわち英語の Systematize である」と記していた。 この記述から、胡適にとって日本語の「整理」が、耳慣れない言葉であったことがよみと れる。

胡適(1891-1962)

現在の上海市浦東新区で生まれる。台湾で働いた父が日清戦争直後に亡くなり、母の女 手ひとつで育てられた。上海の梅渓学堂や中国公学で学んだ後、義和団事件賠償金(庚子 賠款)を基金としたアメリカ官費留学生として 1910 年、アメリカに渡った。当初、農学を 専攻したものの、まもなく哲学に変更し、コロンビア大学で J. デューイに師事した。

1917 年に帰国した胡適は、北京大学教授となり、陳独秀や魯迅らとともに、中国の新文 化運動を担った。彼が『新青年』へ寄稿した「文学改良芻議」(1917.1)は、官話(文語) でなく、白話(口語)文を用いた新しい文学の誕生をうながした記念碑的作品である。ま た、『中国哲学史大綱』上巻(1919)は、三皇五帝の信ぴょう性や孔子と老子の事実関係 を問うなど、実証主義の立場から古代中国思想を分析的、系統的に論じ、旧来のパラダイ ムを一変させる影響をもたらした。胡適は、儒学や古典文学、禅宗など、さまざまな史料 の発掘、整理にもとりくんだ。彼が英仏で発見した敦煌の写本をもとに、編纂した『神会 和尚遺集』(1930)は、鈴木大拙からも「極めて精緻な批評眼で材料を整理」したものと 評価されている。

駐米大使(1938-42)や北京大学校長(1946-8)、台湾中央研究院院長(1957-62)など、 数々の要職も歴任した。1939 年には、ノーベル文学賞候補にもノミネートされている。

胡適は 1919 年 12 月、「新思潮的意義」と題した論文を『新青年』に発表した。中国に おける「新思潮」の根本的意義とは、「評判的態度」にほかならない。胡適は、この「評判 的態度」を、F. ニーチェのいう「あらゆる価値の価値転換(transvaluation of all values)」 にあたるものとし、中国旧来の学術思想に対しても、同様に「評判的態度」でのぞむべき ことを主張した。彼によれば、旧来の学術思想に対する態度は、(1)盲従に反対する、(2) 調和に反対する、(3)「整理国故」を主張する、の 3 種類に分けられるという。ここでい う「整理国故」とは、桑原が説いたように、古代の学術思想を、条理をたて系統的に「整 理」し、「科学的方法」で精確な考証をおこなうことを指していた。「整理」という概念を 用いていることからも、桑原の文章から大きな示唆をうけたと解釈できる。この胡適が提 唱した「整理国故」は、中国の「人文学」がとりくむべき課題を端的に表したキーワード として、人口に膾炙してゆくこととなる。

北京大学における「史学」の形成

科挙廃止にさきだつ 1904 年 1 月、日本の学制をモデルとし、新しい教育制度をさだめ た「奏定学堂章程(癸卯学制)」が公布された。その「学務要綱」では、日本にならい「洋 文」を習得する必要が唱えられ、「中国堂以上の各学堂は、必ず洋文の学習にいそしみ、 大学堂の経学、理学、中国文学、史学の各科は、とりわけ洋文に精通しなければならない」 と説かれていた。この方針のもとに、全国各地に初等、中等、高等の各教育機関が設置さ れたのである。

北京大学の前身にあたる京師大学堂では結局、「奏定学堂章程」で構想された「文科史 学門」は開設されなかった。ただ、その「師範科」に「中外史学課程」があり、外国人教 師として坂本健一や服部宇之吉らが教授していた。辛亥革命を経て、北京大学となった後 も、すぐに「史学門」は設けられず、「予科」や「文学門」の「言語学類」で「史学課程」

が講じられていた。
1917 年、日本への留学経験のある蔡元培が北京大学校長に就任すると、学制改革に着手

し、「文科」に「史学門」を増設した。胡適をアメリカから呼びよせたのも、蔡である。 「改定課程一覧」をみると、「史学門」は、「通科」と「専科」に分かれ、「通科」に「中 国通史」、「東洋通史」、「西洋通史」、「歴史学原理」、「人種学及人類学」、「社会 学」、「外国語」の講座が設置された。この歴史を自国史、東洋史、西洋史と区分するや り方は、いうまでもなく日本の大学を範としたものであった。当時用いられた歴史教科書 の多くは、桑原の『中等東洋史』が示した時代区分に依拠して論述されていた。

【資料 4】那珂通世による桑原隲蔵『中等東洋史』の叙

「近年東洋史の書、世に行はるる者頗る多けれども、皆支那の盛衰のみを詳にして塞 外の事変を略し、殊に東西両洋の連鎖なる、中央アジアの興亡の如きは、全く省略に従 ふが故に、アジア古今の大勢を考ふるに於ては、不十分なることを免れず。予常に之を 憾とせり。此頃文学士桑原隲蔵君中等東洋史を著はして予に示せり。予受けて之を読む に、世に出づるを喜び、一言を題して之が序となす。」

ところで、胡適が提唱した「整理国故」の成り立ちを考える上で、彼に重要な示唆を与 えたと考えられるもう 1 人の日本人が、朝河貫一(1873-1948)であった。胡適と朝河は 1917 年 6 月、偶然にも太平洋を航海する汽船に乗りあわせた。朝河が、のちの『入来文 書』につながる研究調査での日本留学であったのに対し、胡適は、北京大学に赴任するた めの帰国であった。朝河は 1 等室、胡適は 5 人が同居する 2 等室と、部屋が異なったもの の、2 人は航行中、船の最上階にあった喫煙室で、毎日のように顔をあわせ、語りあった という。朝河は航行中、英語の自著 “The Origin of the Feudal Land Tenure in Japan” を 胡適に贈った。この論文では、西欧と日本における封建制度(feudalism)の歴史的類似 性を指摘した上で、日本における封建的土地所有の生成過程が考察されていた。胡適は、 この朝河の論文をよみ、その感想を日記に書き留めていた。

【資料 5】胡適の留学日記

「さきに読んだ朝河貫一先生の「日本封建時代における田畑所有の起源」には、多く の味わいある事実があった。ここに摘記する。

附注 「封建制度」は、西洋語である “Feudalism” の訳名で、実際のところあまり 的確とはいえない。この制度と我が国歴史上のいわゆる「封建」には、違いがある。今 は適当な名称がないため、とりあえずこれを用いる。私は朝河君に、日本の学者がかつ ていかなる名称を用いていたかをたずねた。朝河君は、「封建制度」のほかに、「知行制 度」が用いられたといった。「知行」は、公文書にみえる文字である。当時小作人が身 売りし、文書で契をむすんだ中にこのような文字があるが、実際に確たる名詞にならな かったとのことだ。今日、私はにわかに、「分拠制度」、「割拠制度」のほうが、「封建制 度」よりもよいように思いいたった。」

「封建制度」に関する言及は、それ以前の胡適にはみられず、朝河によってその関心をい だくようになったことが、日記からよみとれる。

1920 年 2 月、胡適が雑誌『建設』を創刊した廖仲愷に宛てた手紙が、同誌に掲載され た。その内容は、古代中国に存在したとされる井田制度の信憑性を問うたものであった。 胡適は、朝河の研究をひきあいにだしつつ、古代井田制度の存在をみとめた胡漢民の論文 に疑問を呈した。これを機に井田制度の存否をめぐる論争がくりひろげられることとなる。

【資料 6】胡適が母親に宛てた手紙

「昨日、ある日本の友人から、私の新婚のお祝いということで 2 冊の本が送られてき ました。この友人は現在、エール大学で教鞭をとっている非常に有名な学者です。昨 年帰国の折、まず汽車の中で出会い、その後また同じ船で海をわたりました。そこで、 始終語り合って意気投合し、友人となったのです。近頃、彼は私が結婚したことを聞 き、お祝いに 2 冊の大著を送ってくれました。私は自ずと、たいへんうれしく思いま した。」

【資料 6】胡適「井田辯」『建設』1920 年 2 月

「古代の封建制度は、決して『孟子』、『周官』、『王制』が説くような簡単なものでな い。古代において部落から無数の小国が生じ、その域内域上にさらに無数の半開化民族 が存在した。王室は、各国のうちの最強の国家にすぎず、名義上、宗教上、政治上の領 袖をつとめた。いずれにせよ、その数千年もの間、「豆腐乾」のような封建制度が存在

したことはありえない。中国の封建時代を研究したいのであれば、ヨーロッパ中世の feudalism と日本近世の封建制度を参考にし、「豆腐乾を切った」ような封建制度を打 破し、別に科学的態度をもって、歴史的想像力をくわえ、古代のいわゆる封建制度は一 体いかなるものであったのかを、改めて発見しなければならない(朝河貫一のような日 本の学者は、日本の封建制度に対し、きわめて科学的な研究をしている)。」

長方形の「豆腐乾」のように区画された封建制度が存在した証拠はなく、当時の政治状 況に照らしても実行不可能で、孟子らが描いた井田制度は、ユートピアと考えるべきであ る。また、「封建制度」は、誤解を招きやすい表現であるゆえ、「割拠制度」の名称を用い たほうがよい。こうした手紙に示された胡適の見解は、まさに朝河論文をめぐる日記の断 想を具体化したものといえる。

1923 年 1 月、北京大学研究所国学門が、機関雑誌『国学季刊』を創刊した。その編集 委員会主任であった胡適は、『国学季刊』創刊号冒頭に、「国学」がどうあるべきかを論じ た「『国学季刊』発刊宣言」を公表した。胡適によれば、「国学」とは「国故学」の略語に すぎず、「国故」は「中国におけるあらゆる過去の文化、歴史」とされる。この「国学」に 今後、とりくむ際の注意点として、胡適は(1)歴史的なまなざしをもって、国学研究の 範囲を拡大すること、(2)系統的な整理により、国学研究の資料を区分すること、(3)比 較研究により、国学の材料の整理と解釈をおぎなうこと、の 3 点をあげていた。(3)の内 容について、胡適は「封建制度のように、これまであの四角形の分封説にあざむかれ、あ れこれ論じてまったく分からなくなってしまった。今、われわれはヨーロッパ中世の封建 制度、および日本の封建制度と比較すれば、容易に理解できる」と、ここでも「封建制度」 を例に、「整理国故」における比較研究の有効性を説いたのである。なお、桑原はこの「発 刊宣言」をよみ、中国人の中にも、「科学的方法」の必要性を自覚している者がいると評価 していた。

中国「封建」論争と朝河貫一

胡適は、マルスク主義の影響をうけた多くの歴史家が、曖昧な「封建」概念の使用をつ よく批判した。その 1 例として、雑誌『新月』に発表された「我們走那條路」(1930.12) がある。これは、胡適が『新月』同人たちに、「われわれは中国の問題をどのように解決 するか」をテーマにそれぞれ論じることを提起した際、それにあたっての根本的態度を表 明すべきだとの意見をうけ、執筆されたものであった。胡適はこの論文で、まず中国がと りのぞかなければならない大敵として、貧困、疾病、蒙昧、汚職、擾乱の 5 つをあげ、め ざすべき目標に「治安のよい、全体に繁栄した文明的、現代的統一国家」をかかげた。そ のうえで、胡適はこれらの目的を達する手段として、武力による革命を否定し、漸進的に 変化してゆく必要性を強調した。暴力革命に訴える人たちは、「中国革命の対象は、封建 階級である」、「中国革命の対象は、封建勢力である」などと、抽象的な言葉をふりまわ しているが、今日の中国にいかなる封建階級や封建勢力も存在しない。問題の所在を把握 するためにも、盲目的なスローガンにまどわされず、現実を直視しなければならないとい うのである。

『新月』といれかわる形で、1932 年 5 月に創刊された『独立評論』では、中国におけ

る政府のあり方をめぐって論争がかわされた。『独立評論』の編集長をつとめた胡適は、「革 命」をおこなう前段階としてイギリスのテューダー朝や、フランスのブルボン朝のような 「専制」政体の樹立をとなえた蔣廷黻に対し、政権統一と「専制」をはきちがえていると 反論した。そもそも「建国」のために「専制」は必要でない上、封建時代を経て旧統治階 級が新興中産社会の領袖となったヨーロッパ各国と異なり、中国の封建時代は 2 千年前に 終焉した。科挙制度の発達後、固定された統治階級は存在せず、「専制」君主が新しい政権 の中心となることはありえない。胡適は、このようにヨーロッパと中国における封建時代 の差異を指摘し、「専制」でなく「民主」政治こそ中国がとるべき道だと主張したのである。

ところで、この論争で同じく「民主」擁護の立場から発言した人物の 1 人に、歴史家の 陶希聖がいた。陶希聖は、中国の「封建制度」が、秦代までに崩壊したとする一方で、そ の後も巨大な「封建勢力」が存続したとみなすなど、多義的に「封建」を用いていた。1935年 1 月、陶希聖ら 10 人の学者が、胡適の「全盤西化」論に対抗する形で、外国文化の模 倣でない中国独自の文化建設を訴えた「中国本位的文化建設宣言」を公表した。胡適は、 かつての「中体西用」論の失敗から何も学んでないとし、宣言文を逐次批判した。これに 対し、陶希聖が中国に残存する「封建主義」に対抗する以外に、欧米の「民主」や「自由」 の思想が役だっていないと反論すると、胡適は「封建主義」のような抽象名詞で、具体的 な歴史事実から目をそらすべきでないと再反論していた。

興味深いことに、陶希聖と朝河には、封建制研究について書面による交流があった。福 島県立図書館に所蔵されている陶希聖が朝河に宛てた 1931 年 7 月 30 日付の手紙から察す るに、陶の研究に関心をもった朝河が、著作の購入を申しでたようである。その際、“The Early SHŌ and the Early Manor” と “Agriculture in Japanese History” の 2 論文を、 朝河から贈られた陶希聖は、これらを読み、比較研究の手法を高く評価した。陶希聖は、 朝河に『中国社会之史的分析』、『中国社会与中国革命』、『中国問題之回顧与展望』の 3 冊 を送るとともに、自らの研究状況や日本人研究者との交流を紹介していた。

漢文の素養があった朝河は、中国の封建制研究にも、目を配っていたのであろう。胡適 と陶希聖は、くしくも朝河と「封建」がらみで、それぞれつながりあっていたのである。