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二二八事件

概要
二二八事件とは、1947年2月27日に台北で起こったヤミ煙草没収事件に端を発し、翌日28日から全島的に広まった反政府大衆暴動である。結果的に、援軍として中国から派遣された国民政府軍が多数の台湾住民を殺害して事態は鎮圧されたが、同事件は台湾現代史上最大の衝突事件となった。1987年の戒厳令解除後にようやく事件に関する調査および補償が実施されたが、未だに正式な被害者数は不明とされ、過去の国民党政権下の不正義を追及する動きは決着をみていない。

事件の経緯とその影響
二二八事件の概要は次の通りである。事件の発端となる衝突事件は2月27日に台北市内で発生した。台北市大稲程(延平北路)で、台湾省行政長官公署専売局の査察官が林江邁という1人の中年女性行商人のヤミタバコを没収しようとした。行商人は哀願し、査察官にすがりつき放そうとしなかったため、行商人は銃の柄で頭を殴打された。この行為を目の当たりにした取り巻きの人々は激高し、査察官を取り押さえようとしたが、査察官の発砲により死傷者が出た。群衆は査察官が逃げ込んだ警察局を包囲し、処罰を要求した。28日になると騒動はさらに拡大し、行政長官公署に詰め寄った群衆への機銃掃射によって多数の死傷者が出た。これによりついに事態は収拾がつかなくなり、放送局が占拠されるとラジオの電波を通じて蜂起が呼びかけられ、全島規模のデモ、ストライキにまで発展した。新たな「祖国」による悪政への不満が爆発したその過程では、混乱に乗じて本省人による外省人への暴力行為や左翼分子による武装闘争の組織化も見受けられ、これが後に政府側による常軌を逸した報復処置を正当化させることにもなった。

3月に入ると、ただちに民意代表による「二二八事件処理委員会」が発足し、一旦は事態の収拾が図られようとした。しかしながら、同委員会によって提出された政治改革要求に対して、行政長官の陳儀は、表向きは融和的姿勢を見せつつも、裏では鎮圧部隊の派兵を中央政府に要請していた。中国からの二一師団の到着を受けて、国民政府軍は3月8日から10日間におよぶ熾烈な弾圧を全島で展開した。この弾圧で、知識人を中心に1万8000人から2万8000人が虐殺されたとされるが、正確な被害者数はわかっていない。政府に対して批判的な言動を行った人物ばかりか、事件の混乱に乗じて数多くの知識人・文化人が意図的・計画的に殺害された。

弾圧直後の政府側の報告書では、二二八事件は「日本の武士道の毒に染まった台湾人」による蜂起と同時に「島内の共産分子に扇動された台湾人」によって策動された反政府蜂起と定義された。事件の2年半後である1949年12月には、国共内戦に敗退した中央政府が台湾に移転し、戒厳令は1987年まで敷かれ続けた。戒厳令下では、多くの台湾人が政府による弾圧を恐れて沈黙に徹し、二二八事件は語ることのできないタブーとなった。

同事件は1947年に勃発したが、注意すべきは1946年から開始していた国共内戦の最中に発生したという点である。本来、同事件は、本省人や外省人の区別の明確でない左/右の対立という構造を含んでいた。しかしながら、1950年代の白色テロ(白色テロの項目を参照)での左翼分子の粛清を経て、事件は禁忌とされたため、左/右よりも本省/外省の対立構図が二二八事件の記憶の中心を占める傾向が顕著となっていった。その結果、二二八事件は戦後の台湾人の「われわれ」意識の形成に最も大きな影響を与え、独立運動の原点と称される事件となった。

民主化後の動き
二二八事件は38年間続いた戒厳令下では長らくタブーとされ続け、ようやく公に議論できるようになったのは1987年の戒厳令解解除に伴う民主化以降のことであった。だが、そもそも、事件の真相究明と補償を求める動きは、1986年に結党された民進党と台湾人権促進会が中心となって1987年に組織された「二二八和平日促進会」(最終的に41の団体から組織され、事件の真相究明、冤罪者の名誉回復、2月28日の「和平日」制定など求める)に代表される、反体制派を中心とした人々による粘り強い運動の継続によって結実したものであった。

最初の二二八記念碑は、1989年に南部の嘉義市で民間の手によって建立されたが、1992年には政府による初の記念碑が屏東市で落成し、以後、各地で記念碑建立が相次いだ。二二八事件の歴史を学ぶ施設としては、1996年に完成した嘉義市二二八紀念館や、1996年に台北新公園を改称した台北市の二二八和平紀念公園の園内に1997年に設置された台北二二八紀念館が代表的であったが、2011年には新たに国家レベルの施設として二二八国家紀念館が台北市に開館した。

歴代総統による対応
政府による公式な報告書である「二二八事件研究報告」は1992年に公表され(出版は1994年)、1995年には李登輝が現職総統として初めて遺族に謝罪した。事件直後には公務員に限定された補償も、この時点でようやく一般の被害者に対する補償へと拡大された。二二八事件に対する歴代総統の対応は以下の通りであるが、民進党による初の政権交代が実現した2000年以降においては、鎮圧軍の派遣を最終的に許可した蔣介石の加害責任が焦点化され、「脱蔣介石化」が一つの争点になっている。

【国民党・李登輝(1988~2000年)】:1988年に現職の総統として初めて二二八事件について言及した。1990年に二二八事件研究グループが組織され、1992年に行政院により「二二八事件研究報告」が公表された。1995年には二二八事件の被害者に対して国家元首の立場から陳謝し、記念碑を建立した。同年には「二二八事件処理及補償条例」(2007年に「二二八事件処理及賠償条例」と改称)が制定され、行政院に「財団法人二二八事件紀念基金会」(http://www.228.org.tw/)が設置されて補償申請が受け付けられるとともに、1996年に2月28日が祝日化された。
【民進党・陳水扁(2000~2008年)】:台北市長任期中(1994~1998年)に台北新公園を二二八和平公園と改称し、総統の任期内では2007年に二二八国家紀念館の設置を決定したほか、被害者家族に名誉回復証書を授与し、謝罪した。中正(蔣介石)紀念堂を「台湾民主紀念館」に改称し、「大中至正」の扁額を「自由広場」に置き換え、中正国際空港を「桃園国際空港」に改称した。
【国民党・馬英九(2008~2016年)】:陳水扁時代に設置が決定していた二二八国家紀念館が2011年に完成した。政府主催の二二八記念式典に出席し、被害者家族に謝罪した一方で、台湾民主紀念館の名称を本来の中正紀念堂に戻した。
【蔡英文(2016~)】:中正紀念堂を政治的に中立な空間とすべく、権威主義時代の統治者をイメージした商品の販売停止や、開館・閉館時の「蔣公(蔣介石)紀念歌」放送停止などが文化部によって進められた。同施設の名称を含めた使用方針を見直す法律改正の実施を決定した。2018年に「行政院促進転型正義委員会」(以下を参照)を成立させた。

「行政院促進転型正義委員会」の成立
二二八事件をめぐる和解へ向けた新たな動きについては、「移行期正義」の議論とその応用への注目がある。国民党政権下では二二八事件の加害責任が明確にされてこなかったが、和解の実現のためには、権威主義下における国家暴力と公権力による不正義をめぐる徹底的な真相究明が必要との認識から、民間団体として研究者を中心とした「社団法人台湾民間真相与和解促進会」が2007年12月に組織された。その10年後の2017年12月には「促進転型正義条例」が立法院で採択され、同条例に基づき、2018年5月には行政院に「促進転型正義委員会」が成立した。同委員会では、1945年8月15日から1992年11月6日までを権威主義統治期と定義し、政治関連公文書の公開、権威主義を想起させるシンボルの撤去、不正義が行われた遺構の保存、司法の正義と歴史的真実の回復による社会的和解の促進、不当に得た党有財産の処理およびその運用、その他の移行期正義に関する事項、といった任務を負い、権威主義時代の遺産の見直しが進められることとなっている。

菅野敦志(名桜大学国際学群 上級准教授)

関連キーワード:戒厳令、移行期正義、促進転型正義委員会、蔣介石

参考サイト
行政院促進転型正義委員会
財団法人二二八事件紀念基金会・二二八国家紀念館
社団法人台湾民間真相与和解促進会

主要参考文献
何義麟『二・二八事件――「台湾人」形成のエスノポリティクス』東京大学出版会、2003年
何義麟『台湾現代史――二・二八事件をめぐる歴史の再記憶』平凡社、2014年
張炎憲主編『二二八事件辞典』国史館・財団法人二二八紀念基金会、2008年
陳翠蓮『重構二二八――戦後美中体制、中国統治模式与台湾』新北市:衛城出版、2017年