和解学の創成

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BS日テレ・深層NEWS「『寄付で基金設立』韓国国会議長の提案は?」に出演しました(2019年11月6日)

BS日テレの深層ニュースに、出演させていただきました。

硬直化してしまった状態を打開するためにどうしたらいいのか、この問題を一緒に考えたいという問題意識を持って参加しました。

崔弁護士が、原告団としてこの提案は受け入れの可能性がある、説得にも自信を持っている。しかし、そのためには世論が支持してくれないと苦しいと言っていた点が印象的です。私自身は、法的な責任があるかないかという議論からこの問題に向き合うべきではなく、道義的な責任から向き合うべきだというのが基本的な主張です。

道義的な責任については、人道支援が破綻国家に行われたり、低開発国に向けたODA支援がおこなわれ、また、地震・災害の救護支援が非常事態に際して、先進国相互でも行われていることが参考になります。かならずしも法的な責任はなくとも、政府が人道的な見地から、歴史に由来する人権被害者の韓国国内法での救済に対して、道義的な責任を果たすことは、十分にあっていいことだと思います。

確かに韓国政府が昨年10月の大法院判決以来、その判決と、日韓請求権経済協力協定の溝を埋める努力を何らしてこなかったことは、非難される余地が十分にありますが、法的責任はすでにないという協定についての日本側の論理を繰り返し、いたずらに日本の国民世論だけを煽るのはいかがなものかと、ますます憂慮を深めた次第です。

そもそも、日韓請求権協定の枠組みは、玉虫色にできています。玉虫色の中心は、相容れない国内的論理をそれぞれがもちながら、国際的な合意として戦前に由来する「請求権を完全かつ最終的に解決」することと、日本側が一方的に経済協力をすることを併記したことに由来します。その複雑な輝きは、実は、十分には解析できない部分が残っています。請求権の時間的・空間的制限に関する文書は、実は、すべて黒塗りなのです。ともかくも、それが今に至るまで、ゴールポストを動かすという批判の背後にあります。

そうした批判が噴出する前は、超党派の連携をベースに、日本側が道義的な責任として新しく登場した問題に対処する、韓国側は請求権協定で言及されなかった(原爆被害者や・サハリン残留者帰国、そして慰安婦)問題には何らかの権利があるという、相異なるスタンスを玉虫色に維持したまま、協力することができたと考えます。

昨日の、文喜相韓国国会議長の提案は、韓国の被害者から反発される可能性があるにもかかわらず、もしも日本と韓国の世論が受け入れてさえくれれば、この案でまとめられる可能性があることを感じた提案でした。法的責任があるかないかという議論は、法が正義と結合し強い感情を生み出しているために、あまり生産的ではないと私は考えます。法的責任は、勝敗の問題となって感情を煽り立てる一方、負けた側はすぐに忘れようとするのではないでしょうか(交通事故裁判などの事例は参考になるでしょう)。むしろ、道義的な責任こそが本当に大事なもので、和解を実現するために不可欠なものであると考えます。感情があおられ相手への「怒り」が掻き立てられるがために、道義的な責任の基盤は崩されてしまうように思います。

また、法的責任がないということをはっきり韓国側に承諾させないと、請求が際限なく膨らむという議論もありますが、韓国国内法による「代位返済」制度の立法によって、日本企業の支払うべき慰謝料が代わりに韓国社会内部で返済されていく仕組みができれば、その慰謝料自体が韓国内の他の被害者(例えば、北鮮に動員された国内被害者、北朝鮮を脱出した元地主、さらに朝鮮戦争虐殺被害者や、独立運動功労者家族慰労金などとの、バランスが取れると思うのです。韓国政府から慰謝料が代位返済されるにあたって、かつて日本人私有財産を払い下げられて恩恵を受けた韓国企業が資金を出すことは、歴史的な請求権・経済協力協定の経緯からみて根拠のあることです。韓国企業が日本企業を説得して、お互いを大事に思う程度に応じて、日本企業が、個人が戦争や植民地支配の時代への償いの感情と、未来への共存共栄への意志を込めて、自発的に供出していくことができたら素晴らしいと思います。

韓国の被害者が求める謝罪の実現のためには、法的責任を追及する方法ではなく、戦後史を含めた両国の歴史的記憶をともに呼び覚ましともに考え感じること、国民感情の由来する記憶にともに向き合う(和解と癒し財団の活動が本来、それにあたるべきだったと考えます)ことを通じてこそ実現するのではないでしょうか。番組の最後にキャプションで、私の言いたかったことを、短くまとめていただきましたが、少し長くここで説明させていただきました。ありがとうございました。

浅野豊美