和解学の創成

  • 1872年東京 日本橋

  • 1933年東京 日本橋

  • 1946年東京 日本橋

  • 2017年東京 日本橋

  • 1872年8月〜10月北京 前門

  • 現在北京 前門

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  • 1940年代初ソウル 南大門

「歴史問題の”和解”を考える講演会―バックラッシュにどう対峙するか?」参加記

20世紀以降の植民地支配や戦争、国家支配により生じた「歴史問題」について、近年その史実を公然と否定し、加害の歴史を正当化するバックラッシュといえる現象が、テレビ、ネット、書店、街中のヘイトスピーチ、さらには選挙活動など、至るところで散見される。このような現象にどう対峙するべきなのか、現場で活動を続ける加藤直樹さん(ジャーナリスト)と、新井かおりさん(北海道大学アイヌ・先住民研究センター博士研究員)からお話を伺った。

加藤さんは冒頭、関東大震災時の朝鮮人虐殺否定論に対峙することになった経緯について、2000年4月石原慎太郎・元東京都知事の「三国人」発言や、2009年に出版された工藤美代子著『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』に触れ、それに対抗するため2014年3月『九月、東京の路上で』を出版、同年9月にサイト「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」を開設した。このことは、バックラッシュに対峙するうえで一定の効果があったという。加藤さんは、サイトを開設するときの具体的な工夫として、否定論者に対抗することも重要だが、より多くの人に届けるため、分りやすく、読みやすく、親しみやすいかたちで史実を提示すること、そして提示された史実についてどう考えるかは、こちらの意見を押し付けるのではなく読者にゆだねることが重要だという。また、親しみやすさという点では、その歴史のなかにどのような人がいたのか丁寧に見せること、それが否定論でつまり切ったパイプに水を通し続ける作業へと繋がっていくと話した。

新井さんは初めに、3月12日の日本テレビ系列の情報番組で放送されたアイヌに対する差別発言に言及、その表現は和人がアイヌを動物以下の存在と揶揄するときに用いてきたものであること、そして番組放送後には「なぜこれが差別表現なのか」と悪気なく問い詰める人が続出、それに対しアイヌ自身が答えなければならないという、積み重なった被害状況を話した。一般的にアイヌに対するヘイトスピーチの始まりは、2009年に出版された小林よしのり『ゴーマニズム宣言NEO2 日本のタブー』からとされているが、もとを掘れば、1996年に文化人類学者・河野本道が出版した『アイヌ/概要』のなかで、アイヌの存在や歴史否定に端を発しているという。アイヌに対するヘイトスピーチの場合、このような「アイヌは固有の言語や文化を失い同化しているので、すでにアイヌ民族は存在しない(中略)にもかかわらず民族文化振興の予算を不正に取得している」(金明秀『レイシャルハラスメントQ&A』2018年)というデタラメな発言が多い。それに対して、2013年初頭から各地で反レイシズム運動が展開されていく。印象的だったのは、被害当事者と支援者の関係についてである。テクニカルなサポートを求める被害当事者側と、被害当事者の自己決定に自らの願望を投影しがちな支援者、それにより固定化していく被害当事者の語りという構図は、市民運動を考えるうえで重要な論点である。そして歴史問題が、いかに個々人の感情が伴う問題であるかということを表している。

講演を聞きながら、過去の歴史に起因する諸問題に対し、どのような人が関心を持つようになるのかが気になった。被害当事者の立場からすると、支配者の加害行為をいつまで糾さなければならないのか、という疲労感がある一方、支配側は恐ろしいくらい当たり前にそれを想像できない。しかし、植民地支配や戦争を経験した被害当事者の声を直接聞くことができた時期、多くの日本人は加害の歴史を驚きと動揺をもって受け止め、どう応答するべきか悩み、悩みを伴いながら支援者となっていった。加藤さんの言葉を借りるならば「世界観が揺さぶられるような経験」をしたからだ。

2000年以降、バックラッシュが蔓延るなかで思春期を過ごした私は、被害当事者の声を(恐怖や疲弊、もしくは他界されて)それほど多く聞くことはできなかった。幸い映像や証言集が残っているので、現在でも触れることはできる。声に出して読むこともできる。でも日本人であるがゆえに、恐ろしく乏しい想像力で、想像するしかできない。だから、なぜ私が、その想像力を持てずにいるのか、また被害当事者の声がなければ運動が展開され得なかったのかについて、問い、悩み、考えること、そして見えてくる問題に対し沈黙しないことが、歴史問題の「和解」を考えるうえで重要ではないかと思った。

文責:櫻井すみれ

(東京大学大学院 総合文化研究科博士課程)