和解学の創成

  • 1872年東京 日本橋

  • 1933年東京 日本橋

  • 1946年東京 日本橋

  • 2017年東京 日本橋

  • 1872年8月〜10月北京 前門

  • 現在北京 前門

  • 1949年前後北京 前門

  • 1930年代北京 前門

  • 1895年台北 衡陽路

  • 1930年代台北 衡陽路

  • 1960年代台北 衡陽路

  • 現在台北 衡陽路

  • 1904年ソウル 南大門

  • 2006年ソウル 南大門

  • 1950年ソウル 南大門

  • 1940年代初ソウル 南大門

和解三原則の提案をさせていただきます(2017年12月16日国際連携シンポジウムで)

和解学創成プロジェクトは、以下の三つの原則を提言させていただきます。
①第一の提言は、正義が複数存在することを前提にした対話の必要性です。国民的な正義以外に、さまざまな正義が想定されますが、正義が複数存在するという前提での対話に、我々は慣れていないようにおもいます。正義の複数性を想定することで、かえって深い対話はできなくなるという批判もあるでしょう。また、そもそも正義についての議論をせずに対話することの意味はあるのかという批判もあるかもしれませんが、対話を通じて、正義自体の優越ではなく、正義自体の国際社会と国内社会にまたがった機能や歴史紛争の構造的な要因を議論することもできるはずです。

②第二の提言は、国民感情を近づけるという目的を意識して、他国民を粘り強く説得するための議論をすることです。ある特定の(それが普遍的であれ、国民的であれ)正義に依拠することで、他国民を非難するスタイルで、歴史的な悪循環は進んでいきます。正義とは別の次元において、この循環をとめることはできないものでしょうか。正しさ・正義と結びついた国民感情を認知し、他者のそれと自己のそれを相対化し、自分の中で、一部でも共有する回路を生み出すことはできないものでしょうか。

③第三の提言は、個人・国民・市民・・・何であれ、相手がいかなる集団に自己をアイデンティファイ・同一化しているにせよ、その尊厳に敬意・礼儀を払うことで、個人に向けられた尊敬を、集団のそれへと転換していく道を見つけることはできないかという点です。
よい感情を生み出す基盤となるのが、相手に対して敬意や尊厳を認める態度であることはいうまでもないですが、さらに、この態度を個人に向けた態度から、集団としての態度へと変化させていく道はないものでしょうか。

以上の三原則を和解学が掲げるのは、現在のネーションを大前提に、そのモラルの問題に和解の本質を帰してしまうのではなく、むしろ、ネーション自体が相互に絡まりあいながら、グローバル化と民主化の時代にあって活性化されている構造を解き明かし、その関係をヒートダウンするための知的インフラに和解学がなろうとするためです。

究極的には、ネーションが想像されているように、ネーション相互の和解もまた想像されるべきものと考えますが、そのためにはネーションの創造を可能としている記憶や正義・感情の社会的な機能への共通認識と、その共通認識の上に三原則に基づいた実際の歴史的な事実への議論が実際にある種の均衡を保ちつつ行われ、ドグマとしての結論や「分かりやすい議論」へと脱することなく、正義や感情の機能という前述の問題とは切り分けながらも、ネーション相互の関係の基礎となる新しい道徳・礼儀・規範が生み出される議論へと昇華して行くことが必要であると考えます。それを可能とするものこそ、以上の三原則です。(また、知的なインフラとして、歴史紛争についてのウェブ事典を具体的に整備することも和解学は行う予定です)

記憶・正義・感情の機能への共通認識と、新しい礼儀・モラルをともなう支える豊かな均衡(「均衡」自体は楊大慶先生の発案です)が維持された歴史的議論のスタイルがあってこそ、現実の政策として、東アジアという地域の市民的意識の共有に向けた文化・教育政策協調の基盤が生まれることでしょう。
それこそが知性と理性のみならず、感情と文化をも組み込んだネットワークの基礎となることでしょう。しかし、そのためにも、感情を左右している正義観念、正しさの問題と、それが無意識に前提としている国民という社会の中での正義・記憶の機能と国民感情の存在を発見することが大事です。
スポーツ・学生・文化交流は、そうした歴史的な記憶に根ざす国民的社会相互の和解のネットワークの一部としてこそ、人間の心を熱くすることでしょう。文化交流に過大な期待を負わせ、国民感情の核となる要素を放置してきたことが、現在の混乱を生んでいるのではないでしょうか。

しかし、和解学は共通の認識やモラルであって、実際にそうした学知が社会的に影響力を拡大していくのは、いつの時代になるかは分かりません。しかし、今の時代にこそ、和解の基礎はすえられ、徐々にでも社会的に国境を越えて共有される学知として、国際的に育まれていくことを信じてやまないです。
それが実現してこそ、植民地支配の犠牲となったともいうべき個人の人権救済が、集団としての国民相互の関係の回復と共に平行して進み、その二つの課題が共に強めあい、補い合いながら進行していくことでしょう。そのための認識やモラル、社会構造をいかに育むことができるかが、東アジアにおける和解学の重要な課題といえるでしょう。
紛争解決学や移行期正義論(過去精算論)が目指すところの人権や人間の尊厳という普遍的な価値は、個人の人権救済が、集団としての国民相互の関係の回復や和解と共に並行して進み、両者が拡大生産されるような状況が生まれるのと平行して東アジアの国民社会共通の価値として、真に普遍的なものとして共有されていくのではないでしょうか。

浅野豊美