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甚野尚志「朝河貫一の比較封建制論の再評価」

朝河貫一の比較封建制論の再評価

早稲田大学文学学術院教授 甚野尚志

はじめに

本報告ではまず、朝河貫一が 1910 年代から『入来文書』刊行までに構想していた日欧の比較 封建制論の見取り図の概略を述べ、次に彼が 1930 年代に「封建社会の性質」草稿群で行った封 建制についての理論的考察の意義に触れる。さらに、彼の比較封建制論が第二次世界大戦期の国 民性の研究にまで発展する流れを考察し、その上で、朝河の比較封建制論の基盤となった西洋中 世史研究の意義について説明したい。

1. 朝河の「比較封建制論」の見取り図朝河の日欧の比較に基づく日本封建制の見取り図は、何よりも当時の日本封建制論をはるかに

超えるものであった。日本では法制史学者の中田薫が、荘園制の成立をもって封建制の成立であ ることを定式化したが、それ以降、荘園制と封建制の成立を結びつける議論がその後長く基本的 な歴史認識として受け入れられるようになる。しかし同時期に朝河貫一は、中田のように単純に 日本の荘園とヨーロッパのマナーを同一視して荘園制の成立と封建制の成立を結びつける議論を 批判し、日欧の封建制の成立過程が異なる道筋を辿ることを論証した。

すなわち朝河は、1914 年の「日本における封建的土地保有の起源(The Origin of the Feudal Land Tenure in Japan)」 や 1916 年の「中世日本の寺院領の生活(The Life of a Monastic Sho in Medieval Japan)」などの論文で、ヨーロッパの封建制との比較から日本の封建制の特徴を分 析した。それらの論文で提示された日本封建制の見取り図は、1918 年に日本アジア協会の雑誌に 出した論文「日本封建制の時期区分(Some Aspects of Japanese Feudal Institutions)」 で明確に 要約されている。以下では、この論文に沿って彼の比較封建制論の論点を示す。(なおこれらの朝 河の論文は、矢吹晋氏による編訳『朝河貫一比較封建制論集』柏書房、2007 年、に原文と翻訳が あり、ここではそれを参照している)。

封建制の本質とその前提

朝河によれば、封建制を構成する要素は以下の三つである。1 支配階級は武士の集団であり、 領主と家臣間の軍事上の私的協約が武士の集団の絆となる。2 土地への権利はあくまでも相対的 保有権である。3 私的な集団である武士層が国家の公的機能を果たす。

また封建制が生まれるための条件は以下の三つである。1 血縁関係により支配されていた社会 が一度、集権的な国家の経験を経ながらも大きな混乱に陥り、国家が力を失い古い氏族生活の慣 習に戻ろうとしたとき、社会は自衛と攻撃のために武装した小さな私的集団に分裂する。その結 果、この集団がかつては国家に属していた機能を私的に行使するようになる。2 貨幣経済が浸透 せず、経済が土地を中心としている。3 社会不安が十分に長く続く。

この三つの条件があれば封建制は誕生するが、ヨーロッパと日本ではこれらすべての条件がそ ろっていた。それは世界史のなかでも幸運な例外といってよい現象とされる。

荘園から封土へ

朝河は、日本で 8 世紀に出現した荘園がその後、領主の封土へと転化していく過程が詳細に分 析し、それを次のように説明する。8 世紀に出現した荘園は免税特権と役人の立ち入りを拒否す る権利を次第に獲得し、12 世紀末までに荘園は公領にも匹敵するほどの規模になる。荘園の領主 は通常、公家か大寺院の不在領主であり、事実上、領主に代わって荘園に住む代理人が支配し、 代理人の下で様々な人間が「領主職」、「土地所有者職」、「小作人職」などの土地からの収益の権 利を保持していた。「職」は土地の保有権ではなく土地から派生する利益を得る権利であり、様々な「職」が一つの土地には存在したので、荘園における土地に対する権利はきわめて錯綜したも のとなっていた。このように土地への権利関係が錯綜していた荘園が、12 世紀から 15 世紀にか けてヨーロッパの封土のようなものに変化する。この変化は、この時期に武士の軍事貴族階級が 出現し、それまで多くの「職」により錯綜していた土地の権利関係を一元化し、土地を自身のみ の権利で支配するようになり生じる。これにより、上位者の武士が下位の武士に土地を封土とし て授封するような関係が鎌倉時代に現れ 15 世紀には完成する。

荘園とマナーの比較

朝河の比較封建制論は、ヨーロッパの封建制社会の基盤をなすマナーと日本の荘園の相違を明 確に指摘したことでも卓抜であった。つまり、ヨーロッパではマナーが村落共同体を形成し、農 民が帯状の畑を完全な保有権で保持し、マナーからの移動を禁じられたのに対し、日本の荘園は 逆に耕地の形も規模も同じではなく、また農民の保有者により独自に管理され、保有者が意のま まに「職」を譲渡できた。つまり日本では土地に対する権利が錯綜しており、不在領主のもとで 諸権利がゆるやかに束ねられていた。また日本の場合は、領主と小作人の農民との関係は主とし て経済的なものにすぎず属人的なものではない。自由な小作人は保有地の絶対的な所有者に近く、 それを分割できるだけでなく自由に譲渡できた。

朝河によれば、このような日本の荘園の特色は何よりも日本の農業の性格により生まれた。日 本では水稲耕作中心の農業であり、水稲耕作では集約的で多様な種類の人間労働を必要とするが、 ヨーロッパのマナーでのような村落全体の共同作業を必要としない。ヨーロッパのマナーでは共 同利用の牧草地と耕地が混在しており、村落共同体を形成して牧草地の管理と耕地での耕作が行 われたのと対照的である。日本では農民が耕地の個人的財産権を保持し、自由な個別保有に対す る外部からの侵害に抵抗するため、収益の権利である「職」を有力者に譲渡してその土地保有を 確実に守っていた。このような荘園における複雑な権利関係が武士の登場とともに整理され一元 的に支配されるようになるとき、中世の荘園は終わり新しい村落共同体が形成され、それが武士 の封土となる。

2. 西欧をモデルとしない「封建制」概念の構想
このように朝河は 1910 年代の論文で、日欧の封建制の差異を明確にしつつ荘園が封土に変化

する過程を分析したが、その後に出版された彼の主著『入来文書』では、彼の比較封建制論を拡 大し、一地域の封建制社会の成立から解体までの全体像として描くことになる。朝河は『入来文 書』で入来院家の文書集を用い、一地域の中世から明治維新までの封建制社会の変容を明確に浮 かび上がらせた。その意味で 1910 年代の朝河の研究が、一地域の歴史の分析として結実したの がこの書物であった。彼は『入来文書』の後半の「論点の要約」で日欧封建制の差異をまとめて いるが、そこでは彼がすでに論文で提示していた比較封建制論のみならず、日欧封建制の相違について新たな論点も加えて論じており、『入来文書』はマルク・ブロックやオットー・ヒンツェに より高く評価され、朝河の比較封建制学者としての名声は欧米の世界では高まった。

しかし、朝河が成し遂げた比較封建制論の業績はこれだけではない。彼は、イェール大学大学 院で西洋中世史の授業を担当していたこともあり、1930 年代になると日欧の封建制を比較する理 論的な考察に取り組むようになる。ただ残念なことに、その成果は論文や著作の形で刊行されな かったが、イェール大学の「朝河貫一文書」には、彼が書いた日欧比較封建制論の草稿群が残さ れている。その草稿群は 14 の草稿からなり、その多くの草稿には「封建社会の性質(Nature of Feudal Society)」というタイトルが付けられているので「封建社会の性質」草稿群と呼ばれる。 「封建社会の性質」草稿群にある草稿のうち、最も時期が早い草稿は 1932 年の日付があり、草 稿のなかには 1936 年の日付のものもあるが日付のない草稿も多く、最も遅い草稿でもおそらく1940 年頃までには書かれたと思われる。これらは朝河が 1930 年代に集中的に研究しながらも未 完成に終わった草稿群であるが、この草稿群では封建制についての理論的な考察がなされている。

とくに一つの草稿(Folder 108-4 )では、封建制について西欧を普遍的モデルとしない柔軟な概 念として理解すべきことが語られており、それは、この時期の朝河の封建制理解として注目に値 する。その草稿では次のようにいわれる。「封建制は多くの国で生じたが、それぞれの封建制の形 態はほとんど互いに似ていない。また封建制でその発展の完成形態に達したものはなく、西欧の 封建制のモデルが他の封建制に十分に適合することもない」。そしてこれに続き、封建制の成立に 共通する社会的な諸要因が以下の三つとされる。1 一度統一された国家が数多くの自治的な人々 の団体へと解体する。2 これらの人々は条件付き保有地からの収益で生活する。3 これらの団 体の主たるメンバーは戦士であり、彼らは互いに強固な個人的忠誠と相互の義務の協定によって 同盟する。 朝河によれば、この三つの条件が揃えば封建制と呼びうる社会が生まれるが、「西欧 の封建制も歴史の諸段階で世界のことなる諸部分で生じた多くのものの一つ」にすぎないとされ る。また、封建制のモデルとして「提示されるシンメトリカルな像は、西欧史のことなる時代、 西欧のことなる国から取ってこられた理念の恣意的な産物」でしかなく、また「封建制の完成形 態はいかなる場所、いかなる時代にも実在しない」ともいわれる。

ここで述べられる封建制成立のための三つの社会的要因は、1918 年に書いた論文「日本封建制 の時期区分(Some Aspects of Japanese Feudal Institutions)」 でも述べられいるが、この草稿で は考察が理論的になり、西欧をモデルとしない価値中立的な封建制のモデルの必要性が語られる 点が目新しい。ここでの議論は、おそらく朝河が西洋中世の封建制について研究を深めるなかで1930 年代に到達した新たな封建制理解といえる。そこからはこの時期に朝河が、相互に影響関係 のない日欧の封建制が同質ではなく単純な比較が不可能であることを十分に自覚しつつ、また一 方でマルクス主義歴史学の発展段階論が日本で隆盛を迎えるなか、封建制の概念を世界史の発展 段階論から解き放し、一種の歴史社会学的な概念として定義しようと努力していたことが窺える。

また朝河は、封建制がすべての人間社会の必須の発展段階ではないとすることで、ヨーロッパ 文明を軸とした考えられてきたヨーロッパ中心主義的な歴史観とも異なる歴史像を構想してい た。彼は、「封建制はすべての社会にとり進化の通常のコースといえるのだろうか」と自問し、そ れに対し「自身の自生的な能力だけで封建制を作った民族は一つもない」と答え、封建制とは遭 遇した重大な危機に適用することを知っていた、数少ない人々にだけのまれな幸運であったと述 べる。朝河がこの草稿で述べる封建制論は、ヨーロッパの封建制を模範とせず、一定の発展段階 にも位置づけることもせず、一つの社会類型として定義した点で独特である。

3.「比較封建制論」から「国民性」の研究へ

朝河の研究の軌跡をみると、第二次世界大戦が勃発する頃に「封建社会の性質」草稿群の執筆 を中断し、彼の関心は現実の戦争の問題に向かって行き、戦争中には日本人の国民性の分析を集 中的に行うようになる。そして、そのような彼の関心の変化は、彼が出した書簡から具体的に辿 ることができるが、とくに彼が第二次世界大戦の時期に、自身の研究や政治的関心事について書 簡で語った相手はグレッチェン・ウォレンというアメリカ人女性であった。グレッチェン・ウォ レンは、ボストン在住の女性詩人で朝河とは 1915 年に知り合って以降、親しい友人関係にあっ たが、両者は 1935 年以降、朝河の没するまで頻繁に文通しており、その間に朝河が出した書簡 はイェール大学のバイネッケ図書館に所蔵されている。それらの書簡からは、1930 年代以降の彼 の思想や関心の推移を見て取ることができる。

グレッチェン宛書簡では、とくに 1939 年に第二次世界大戦が勃発した時期にヒトラー批判が 頻繁に論じられる。またそこで朝河がヒトラーを批判する際、ドイツ人の中世以来の民族性とヒ トラーの精神とを関連付けている点が興味深い。1939 年 7 月 12 日の書簡では、ヒトラー支配下 のドイツ人の精神構造は古代ゲルマン人に近いと述べられる。すなわち古代ゲルマンの世界では、 共同体の構成員は自身が属する共同体に対して誠実を誓い、共同体に対して不誠実な人間は共同 体により厳しく罰せられ、個人の自立的な行動は許されなかった。個人の名誉はあくまでも共同 体への誠実により得られるものであり、人々は共同体への忠誠が求められる一方、外に対しては 戦いと略奪が許された。その後、ドイツに封建制に基づく騎士道理念が西欧から到来しても、個 人を重視する騎士的な誠実と名誉の理念はドイツには定着しなかったと語られる。朝河によれば、1933 年に権力を掌握して以降のヒトラーの行動様式は古いゲルマン人の精神を反映しており、そ れがヒトラーの成功の秘密だとされる。

だが朝河の考察では、このようなナチスの支配もおそらくまもなく崩壊する。なぜなら、どの 国民も自身が勝ち取ってきた独立を保持したいと願っているからである。とくに民主主義の国家 は、すべての市民が独立を望むので、ナチスによる征服が大きくなればなるほど、それだけナチ スの解体も早いだろう。またヒトラーの個人的な性格もある。ヒトラーは一定のドイツ人の特徴や情緒を体現しているとはいえ、彼がドイツ人の性格全体を代表しているわけではない。彼が体 現するのは、きわめて歪んだ形での、古いドイツ国民の特徴である。したがってヒトラーの支配 はヒトラーとともに終わるだろうと朝河は述べる。

朝河のグレッチェン宛書簡では、太平洋戦争が勃発すると、朝河が新たに始めた日本人の国民 性の研究について語ることが多くなるが、そもそも朝河が日本人の国民性の問題に取り組むよう になったのは、グレッチェンから日本人の国民性はどのようなものかを問われたからであった。 朝河は 1942 年の 2 月 28 日付のグレッチェン宛書簡で、グレッチェンから尋ねられた、日本人の 国民性はどのようなものかという問いに答えるために、最近、日本人の国民性の研究を始めたと 述べる。その後、1943 年 3 月 12 日のグレッチェン宛書簡では、自分が毎日、日本人の国民性に ついて研究しているので、通常行っている研究や図書館の仕事ができないと述べている。さらに、 日本人の国民性の研究は一冊の本ほどのものになるだろうが、いつ書き終えられるかはわからな いとも語る。しかしその後、不完全ではあるが 150 頁ほどの原稿を書いたことを述べ、またその 後には、日本の学者の著作から多くのノートを取り、そのノートは 800 頁ほどにも上ったことを 語っている。だが彼は 1943 年 6 月頃には、毎日この問題に取り組むことを止めて日曜日に限定 して継続することにしたことを述べる。グレッチェン宛書簡からは、朝河が 1942 年初めにグレ ッチェンの求めで日本人の国民性の研究を始め、1943 年の前半に没頭するが全体をまとめる見通 しがつかず、これを日曜のみの研究として、再び、本来の歴史研究に戻っていったことがわかる。

ともあれグレッチェン宛書簡からは、朝河が 1943 年 3 月から 6 月頃の時期に、自身の本来の 歴史研究を止めて日本人の国民性の研究に没頭し、日本人が書いた国民性に関する様々な著作を 読み膨大なノートを取っていたことがわかる。実際、このような書簡の内容に対応するノート群 がイェール大学の「朝河貫一文書」には存在する。それらのノートは、たんに日本人の国民性を 扱うだけでなく、諸外国の国民性も扱っている。また何等かの著作からの抜粋のみならず、新聞 の切り抜きへの注釈であったりする。ノートの日付からみるかぎり、朝河は 1942 年から 43 年の 前半にかけて、集中的に国民性についての研究を行っていたことがわかる。そして、これらのノ ートは、朝河がその後の書簡で日本人の国民性を論じる際などに参考資料として使っていたと考 えられる。

朝河はこのように第二次世界大戦が始まると、比較封建制の研究から国民性の研究へと関心を 移していった。朝河が国民性の研究に没頭した理由は、それぞれの国家と国民が戦争に際して、 それぞれ独特の対応を取ることを目の当たりにしたからであろう。朝河は、そうした独自の対応 が個々の国家の慣習や国民の心性に基づいており、それを歴史学的に分析すれば、戦争や紛争の 回避に役立つと考えていたからにほかならない。このようにみれば、朝河の国民性の研究は、彼 の比較封建制研究から派生した研究といえるのである。

4.朝河貫一の西洋中世史研究の意義

以上、朝河が行った研究について概観したが、今後、朝河の比較封建制研究を再評価するにあ たり、重要な論点の一つとなる問題にもう一つ触れておきたい。それは、朝河が行った西洋中世 史研究が彼の比較封建制研究にどのような影響を与えているのかという問題である。

朝河自身はすでにダートマス大の卒業論文で、自身が西洋中世の封建制について強い関心を持 ったので、日欧の封建制を比較する論文を書いたと述べており、またイェールの大学院生時代に は、中世史家のアダムズ教授の指導のもと多くの西洋中世史関係の書物を読み込んでいた。そう した研究の成果は、彼の 1910 年代の論文に反映しているが、その後、1923 年からはイェールの 大学院で西洋中世史の演習と講義を担当することになり、彼の研究の関心は本格的に西洋中世史 へと移っていったと考えられる。

なぜ朝河がイェールで西洋中世史の授業を担当するようになったのかといえば、直接のきっか けはイェールの財政難であった。彼は最初、日本史を担当する任期付き講師としてイェールで教 えていたが、1920 年頃に起こったイェール大学の財政難による教員削減で解雇されそうになる。 だが、朝河が西洋中世の封建制を教えるだけの知識があることを見込まれ、1923 年からは西洋中 世の封建制の講義と演習を大学院で担当することで継続的に雇用されるようになった。彼は東ア ジア関係図書の図書部長としての職務も続け、日本と中国関係図書の目録作成も継続したが、こ れ以降、多くの時間を西洋中世史の研究と授業準備に割くようになる。

『入来文書』は 1920 年には史料の英訳の部分は完成しており、その後、西洋中世と日本中世の 封建制を比較した「論点の要約」の部分を執筆し、1925 年に書物は実質的に完成している。した がって朝河は、1920 年頃から「論点の要約」執筆のために西洋中世の封建制について研究してい たと思われ、1923 年に西洋中世史を授業で担当する頃には、西洋中世の封建制に集中的に取り組 んでいたと考えられる。その証拠となるのが、イェール大学の「朝河貫一文書」にあるフランク 王国史に関する膨大な史料カードである。彼はこの時期に授業で使用する素材として、フランク 王国時代の制度や社会一般に関する史料を抜粋し、テーマごとに体系化した膨大なカードを作成 していた。そのカードは枚数にして優に一万枚ほどはあり、全体が様々な項目ごとに体系的に整 理されている。筆者が確認したかぎりで、そのなかには 1925 年の日付の書簡も挟まれているの で、1925 年頃かそれ以前にはこのカードは作成が開始されていたと思われる。朝河の西洋中世史 の授業は定年まで初期中世のフランク王国時代の封建制を中心とするものであり、この史料カー ドを利用して史料講読の演習や講義を行ったのだろう。

さらに重要な事実は、イェール大学の「朝河貫一文書」には 1931 年の日付がある「フランク国 王の立法権(The Legislative Powers of the Frankish King)」というタイトルの未完成の草稿が存 在することである。これは 100 頁近い長大な論考で未完成ではあるが、内容はカピトゥラリアな どの王権の立法関連資料を体系的に分析したもので、当時のヨーロッパでの研究水準に劣らない緻密な論文である。ここからは、朝河がフランク王国の立法に関する研究論文も執筆し刊行しよ うとしていたことがわかる。また、すでに述べたように、朝河は 1930 年代には日欧の封建制を 比較する理論的な考察にも取り組み、「封建社会の性質」草稿群を残したが、そこでも朝河の西洋 中世史に対する深い学識が見て取れる。

いずれにしても、朝河貫一の歴史研究の全体像を明らかにするためには、彼の西洋中世史研究者 の側面も考察することが不可欠である。そしてこの問題は、私自身が今後取り組みたいと思って いるテーマである。

結びにかえて

以上、朝河の比較封建制論をめぐって論点を提示してきたが、最後にもう一つ考察すべき問題 として、朝河の比較封建制論がその後の歴史研究に与えた影響について触れておきたい。朝河の 日本の歴史学に対する影響については研究がなされているが、欧米の歴史学に対する影響はなお 解明すべき点が多い。J.W.ホールは朝河の遺稿集『荘園研究』(1965 年)の序文で、二種類の西欧 の研究者が朝河の影響を受けたと述べている。一つは欧米の日本史研究者であり、その代表はジ ョージ・サンソムとエドウィン・ライシャワーである。もう一つは欧米の西洋史研究者であり、 その代表は朝河と文通を行ったマルク・ブロックである。ブロックは封建制を「社会の一類型(a type of society)」として考察したが、ブロックの研究にとり、朝河の比較封建制論が明らかに概 念形成の助けとなったと述べている。朝河は他にも欧米の歴史研究者たちと文通し意見交換して いるが、朝河の業績が欧米でどのように評価され、継承されたのかについては今後、書簡などの 分析を通じて考察すべき課題であろう。

なお付言すれば、福島県立図書館には二千通余りの朝河送受信欧文書簡があり、そのなかにも欧 米の歴史研究者との多くの書簡が存在する。これらの書簡を分析すれば、朝河の欧米での歴史研 究者との交流を解明できるかもしれない(福島県立図書館所蔵の朝河書簡の新目録は、私と図書 館との共同作業でまもなく刊行予定である。現在は HP 上に朝河受信書簡[欧文]以外は公開され ている

[付記]この要旨には十分な注を付けられなかった。史料や文献に関しては以下の拙稿を参照の こと。「朝河貫一と日欧比較封建制論―「朝河ペーパーズ」の「封建社会の性質」草稿群の分析―」 (海老澤衷・近藤成一・甚野尚志編『朝河貫一と日欧中世史研究』吉川弘文館、2017 年、所収)、 「朝河貫一の西洋中世史の研究と教育活動―イェール大学所蔵『朝河貫一文書(Asakawa Papers)』の分析から―」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』63 輯、2018 年 3 月、「朝河貫一と グレッチェン・ウォレン(Gretchen Warren)の文通―イェール大学バイネッケ図書館所蔵「朝河 発グレッチェン宛書簡集」について―」Waseda Rilas Journal, no.6, 2018 年 10 月