和解学の創成

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「『歴史問題の和解と市民運動―非当事者の役割を考える』市民運動班シンポジウムに参加して」がストックホルム大学のダールベリさんから投稿されました。

ストックホルム大学アジア・中東・トルコ学部日本語学科卒業、京都大学に留学

ダニエル・ダールベリ

 

 本稿では論者一人ひとりの発表に対する私の感想を述べるというより、私がシンポジウム全体に一貫して感じた共通点を言葉にしてみたいと思います。そのため、論者の個性をややないがしろにすることになるかもしれません。川見一仁氏の発表には一切触れませんが、それは興味深い点がないからではなく、いかに述べる論点とは直接関連がないと判断したからです。その旨を予めご了承いただければ幸いです。

 私が感じた共通点は大きく分けて二つです。正確には、論者たちが集中的に議論した「被害者と支援者のずれ」と、私から見て議論が不十分だった「支援者と市民のずれ」です。以下に、まず前者を詳述します。その際、前者に関連のある発言を恣意的に摘出した上で、それらを一つの全体としてまとめたいと思います。

 丹波博樹氏は、自分が水俣病の被害者を支援するうちに、「疚しさ」を感じるようになったと話しました。それは、彼の表現では「占有意識」に対する疚しさでした。彼の「占有意識」とは、私の解釈では、自分が水俣病の被害者の支援者であることをアピールすることから来る、他者への優越感です。つまり、尊厳回復のために人権救済や謝罪を求める被害者と、「占有意識」のためにその支援に携わる彼との「ずれ」に疚しさを感じたと考えて良いでしょう。

 彼のずれは「占有意識」の形をとったが、他の論者の発表にもみられるように、ずれのとりうる形は「占有意識」だけに限られているわけではありません。

 たとえば、花房俊雄氏が話した女子勤労挺身隊の関釜裁判原告の一人と弁護士との間にも、別の種類のずれがありました。女子勤労挺身隊だった当時の原告人は皇民化教育を受けて、日本のために頑張っていた「優等生」でした。そのため、日本のことは特に恨んでいなかったが、働いて稼いだお金だけは返してほしいという思いで裁判に臨みました。しかし、ある日、弁護士との打ち合わせで日本政府を批判してほしいと頼まれたことを契機に、期待されていた役割と昔日の日本的愛国心との板挟みとなり、夜中に起き出して「弁護士が包丁を持って迫ってくる」と叫んだエピソードがありました。こうした被害者と支援者のずれがあったことによって、花房氏が改めて問題の複雑さを認識できたと話しました。

 あるいは、浅野慎一氏による中国残留日本人孤児問題通史の第二期(1981年~2000年)にも異なったずれがありました。この期間では、肉親探しで途方に暮れていた被害者の身元引受人になってあげる支援者が多かったそうです。ところが、その結果として支援者たちが父権主義的な立場に立って被害者たちを日本社会に同化強制し、彼らの主体性を奪おうとしたという逆効果を生みました。このような支援について、浅野慎一氏は「被害当事者の主体性を侵犯してはならず、側面的支援に徹すべき」だとし、ずれの危険性を指摘しました。

 また、内海愛子氏が在日朝鮮人の差別について或る在日朝鮮人の男性に取材したときの逸話もずれの危険性を示唆するものでした。その男性は「あなたの苦労話を聞かせてください」というお願いに対して「あなたの論文の材料になるつもりはない。(中略)話を聞いてどうするのか」と答えました。そこから内海氏は、被害者から証言を取る際、その証言を被害者自身が望んでいる形で活かさなければ、話してくれる気にはならないということを学んだと話しました。

 このように、「被害者と支援者のずれ」という共通点は、私の問題関心に即したもので、これまで触れたこと以外にもほかに重要な発言があったわけですが、それでもシンポジウム全体に通底するテーマではあったと思います。もし論者たちが意図的にそこに重点を置いたのならば、それは何ら不思議なことではありません。被害者の望む支援を支援者が提供するためには、互いのずれの解消が必要だからです。しかし、そこに重点が置かれているだけに、「被害者と支援者のずれ」と表裏一体であるはずのもう一つのテーマの不在がより存在感をもって目立っています。それはすなわち、第二の共通点である「支援者と市民のずれ」です。以下に、この共通点について詳しく記します。

 ここでは、支援者が被害者の意思を正しく発信していることを前提として、一般市民がその意思を自分の価値観に合わせて歪曲する現象を「支援者と市民のずれ」と呼びます。シンポジウムでさほど議論されなかったこの「支援者と市民のずれ」を共通点と呼ぶのは変と思われるかもしれませんが、第一の共通点が議論されるべくして議論された「正の共通点」だとすれば、第二の共通点は議論されるべきだったのにあまりされなかった「負の共通点」です。なぜ後者が議論されるべきかというと、被害者と支援者が互いのずれを解消し、被害者の意思を正しく発信する方法がわかっても、市民社会がその意思を正しく受信する方法が確立されなければ前者が徒労に終わるからです。

 もちろん、シンポジウムでこのテーマがまったく議論されなかったわけではありません。たとえば、浅野慎一氏は被害者と身近に接触することによって、被害者の主体性を学ぶことができると主張しました。また、丹波氏は時間制限に追われてシンポジウムで発言できなかったものの、レジュメ(11ページ)では、何かの問題に関心をもつための第一歩は、自分のなすべきことがはっきりと分からなくても、「無数のことがらと関係を結びうる」ことを自覚し、「『なんかヤバくね!?』と予感し、おろおろ彷徨きまわりはじめる」ことだと書いています。これらの主張は確かに一理ありますが、そもそも歴史問題に興味がない人、あるいは歴史問題を否定しようとする歴史修正主義者であれば、被害者と接触して主体性を学ぶことも、「なんかヤバくね!?」と予感することもできません。ですから、それ以前に考えなければならないのは、被害者と接触する興味、または「なんかヤバくね!?」という予感をこうした立場の人に持たせる方法です。それがどのような方法としてありうるか、私もすぐには思いつきませんが、あえて言うならばそれは一つだけの普遍的な方法ではなく、さまざまな社会集団に合わせた複数の方法でなければなりません。なぜなら、社会集団によっては情報を受信する「場」と、その情報を内面化する「条件」が変わってくると考えるからです。歴史修正主義者を例に言えば、ネットの掲示板やアマゾン、ユーチューブなどといったネトヨウ的な「場」を通して対話しなければならないでしよう。また、自らのナショナリズムの保全のために歴史問題を否定する彼らに被害者の意思を受け入れさせるには、まずそのナショナリズムを解体し、被害者と同調するように再構築するところから「条件」を整えておかなければならないと私は考えています。

 本稿を締めるにあたって述べたいのは、浅野慎一氏の指摘したことでもありますが、「研究」と「市民運動」は峻別すべきだということです。ただし、浅野慎一氏と私が言っている意味は少し違うのかもしれません。これはあくまで私が「慰安婦」問題について学位論文を書いた過程で感じたことですので、他の歴史問題については言えませんが、史実をめぐって学術的に議論するだけでは到底「慰安婦」問題を和解に向かわせることができない気がします。なぜなら、あまりにもさまざまな解釈が可能な史料が存在していて、それらを市民が被害者とのずれが存在したまま、それぞれの人びとがバラバラに解釈しているからです。したがって、市民運動が市民と被害者とのずれを解消することに成功したら、史実をめぐる研究者の論争も現在の膠着状態から打開することができるでしょう。ただし、そのためには市民運動が戦うべき次元を学界ではなく、市民社会に求めるべきだと私は思います。