和解学の創成

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メディアと文化 メディアと他者表象をめぐる考察(小菅信子)

 

山梨学院大学法学部政治行政学科

教授 小菅信子

私が「戦後和解(postwar reconciliation) というテーマにかかわるようになったのは、1996年の冬の初め、英ケンブリッジで起きたある事件がきっかけだった。英国では、11月の初旬に、戦死者の追悼記念日がある。リメンブランス・デーとか、ポピー・デーと呼ばれている。私は、いまから20年前のケンブリッジ市で開催された戦死者追悼の記念式にたまたま列席することができた。その追悼記念式で、私は和服を着て、市営墓地の追悼碑に、英国の戦死者の象徴である赤いポピーの花輪を捧げた。

この時この場所で、それまで関わりを持たなかったさまざまな人々や事象が、一瞬のうちに私と束ねられることになった。ケンブリッジの地方新聞は、私の献花の写真を大きく第一面に掲載した。それから同紙は連日のように関連記事を掲載し、一種の「美談」として大々的に報道した。記事には、私が「赦しを求めて」献花をしたと書いてあった。

私は、その地方新聞を前にして、つまり献花した後になって、ひどくうろたえ、悩みはじめた。日本人である私が、第二次世界大戦のケンブリッジ出身の戦死者に、赦しを求めるというのがどういうことなのか――それはわかっていた。ケンブリッジから出征した兵士は、日本軍のシンガポール陥落に際して、みな捕虜になった。そのうちの四人に一人は故郷に帰ることができなかった。四人に一人が、日本軍の捕虜となっていたあいだに死んだのである。

そういう土地で、戦後生まれの日本人が求めたという赦しがどんなものだったのか、私は知りたいと思った。私が求めたものが赦しであるというなら、当の本人の私に理解できないなどということがあるだろうか。

記事の反響が次々と押し寄せ、たくさんの手紙や問い合わせが届くようになった。英国退役軍人会の全国紙に私の献花の写真が転載された。まもなくスコットランド退役軍人の雑誌にも掲載された。私は、来る日も来る日も、下手な英語で返事を書き、招かれた会合に出席し、いま何が自分に起きているかを理解するために大学図書館でたびたび調べものをした。

しばらくすると、私の追悼記念式での献花について、地区の教会報が「癒しの天使」という題の記事を掲載した。追悼記念式の司式をしていた牧師から手渡された。彼もまた対日戦線に従事した退役軍人だった。彼の手作りの教会報を受け取って、私はにこにこ笑いながら読むふりはしたものの、内心はパニックに陥っていた。この私が、「癒しの天使」だというのか。

当時の私は、いわば一種の「アイデンティティ・クライシス」にあったといっても過言ではない。熟慮の末、研究者として、アクティヴィストとして、私は「日英和解」という課題に取り組むことにした。

日本のメディアはまったく関心を示さなかったが、私の献花の写真と記事はケンブリッジシャー州の地元紙から英国全土の退役軍人たちの目にふれることになった。従軍世代に賛否両論の論争を引き起こしたのである。

あれから20年が経った。あの時、私を賛美してくれた人びとのほとんどが他界した。彼[女]らはどこまで私を理解していてくれただろうか。異文化としての日本文化に理解を深めたのだろうか。本研究では、論者の体験を問題意識の源流として、和解をめぐるメディアと文化について、いわゆる公文書を視野に入れつつも、映画、ドキュメンタリー、小説、手記といったノンフィクションに観られる他者表象と「和解」について考察する。