和解学の創成

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村山内閣初期に外政審議室長を勤められた谷野作太郎様の講演記録「東アジアにおける戦後の和解を考える」と、我々和解学チームとの対談をお届けします。

谷野作太郎(元駐中国・インド大使、駐韓国公使)「東アジアにおける『戦後の和解』を考える」2020年8月29日、於早稲田大学


(以下は、実際の「報告」に、当日、時間の関係で省略したところを、後日、報告者が適宜補筆したものである)


浅野:この度は、暑い中、わざわざ、我々の研究合宿に足を運んでいただき、誠にありがとうございます。こちらとしては、戦争の記憶にどのように政府は向き合ってきたのかという観点から、村山内閣時期の平和友好交流計画や村山談話の経緯というものに基本的な関心がございます。しかし、谷野先生も和解についてお話したいことがたくさんおありということですので、まずは1時間程度話していただき、そのうえでこちらの方から質疑応答という形で受けたいと思います。和解学という新しいフレームで我々は考えてきたわけですが、和解に関わる研究者と、実務家との対話という形をベースに本日は交流させていただきたいと思っております。ではよろしくお願いいたします。


谷野:皆さん、こんにちは。昨日は安倍晋三さんが突然の退陣ということになり、今日はその翌日という歴史的な日です。いずれにせよ大変意義のある和解学の創成プロジェクトから、私のような80歳をとっくに超えた老人にお声がけをいただき、大変恐縮しております。せっかくですから簡単なレジュメを用意しました。書き始めるとあれも、これも話したいと、若干長いものになりました。本日は、まずはこれに沿って、現役の頃のことを思い出しながら話をしていきたいと思います。私の言いたい事はこのペーパーの後段にありますが、後段につなげるように、前段のことについてもお話ししたいと思います。

私の役所時代、アジアとの関わりは多々ありました。そのなかでも特に中国ですが、日本との関係で折々の緊張を招く問題が、3つあったように思います。第1番目はカッコ付きの「歴史」の問題があります。すなわち20世紀の初頭に、日本がアジア近隣諸国との関係でもった非常に不幸な「歴史」、これにどう対応し向き合うかという問題ですが、これが時折、緊張を招く要因になりました。第2番目は台湾の問題、特に日台関係、これが第2の緊張を招く要因でありました。

台湾の件でも色々なことを思い出すわけですが、1つだけ挙げますと、北朝鮮から10人ぐらい逃げてきたことがありました。脱北者ですね。当時、日本はこういう人達を受け入れる枠組みがなかったものですから、いろいろ関係方面と内々のやりとりの結果、結局台湾に移送するということになりました。当時、アジア局の審議官だった私が、その移送チームを率いる係を仰せつかりました。後藤田正晴さんが官房長官、中曽根康弘さんが総理大臣、橋本龍太郎さんが運輸大臣の頃でしたが、誰か、外務省からついていけということで、命を受けました。

そこで台湾に護送したのですが、これが大問題になりました。私は「高官」でもなんでもありませんでしたが、外務省の高官が台湾に行ったと。行ったといっても、飛行機から降りたわけではなく、この人達を台北で降ろして帰ってきました。しかしまあ大変でしたね、この時の中国の反応は。そんなことでさえ非常にピリピリする中国政府でありました。総統を辞めた直後の李登輝さんの病気治療のための訪日についても、先ほど食事をしながらお話していたのですが、これも大変でした。国内で訪日に反対論も少なくない中(とくに外務省)、私は退官直後のことでしたが、現職の総統でもない人が、しかも専ら病気(心臓病)治療のために信頼する岡山在住の日本人医師を頼って来るのに断わる方がおかしいと、むしろ入国を認めるべしという立場で官邸に働きかけるなど、深くかかわったものですから、昨日のことのようによく覚えています。

第2番目はその日台関係ということですね。皆さんも同じ考えかと思いますが、1972年の日中共同声明があるにせよ、その枠内で、色々なことを日台関係のために出来るはずですし、そのいちいちについて、無理無体なことを中国から言われる筋合いではないというふうに私は思います。

第3番目は、その後のことですが、領土問題、すなわち尖閣問題です。以上、3つのことが挙げられます。

そこに中国語(「以史為鑑、開拓未来」)で、中国の人たちがよく言う「歴史を鏡として未来を開こう」という意味のことが書かれています。立派なメッセージだと思うのですが、しかしどうでしょうか。我々から見れば、中国は、時折、歴史のカードを使って日本にかかってくるということがあるような気がしますね。他方、日本はどうかといえば、特に政権の中枢から国粋主義的な言動が後を絶たない。私の現役時代もそのようなことがありました。大臣をなさった九州の某大物政治家ですが、「朝鮮併合は市町村の合併みたいなものだ。何が悪いんだ」と言ったことがありました。そういった乱暴な言辞言動があり、それが中国や韓国を刺激する。そういうなかで、先生方のように、歴史の真実に向き合おうという学者も含めて、これを掘り起こそうとすると、「なんだ」となる。「自虐史観」とよくいいますね。「昔のことを今更なんだ」と。それから例の「作る会」が作った歴史教科書や、一部のメディアもそうですね。

昨日の安倍退陣声明を受けて、各誌の論調を読み比べてみたのですが、メディアでも日本のなかは分断ですね。それから、いろいろ排他的なナショナリスティック的なことをメッセージに掲げるNGOもあります。今日的な問題としてまだある。だから、そういうなかで先生方が努力しておられる和解学会での研鑽、発信というのはとても大切だと思います。

「謝罪疲れ」と書いてありますが、米国のエズラ・ボーゲル教授なども「歴史」については、日本は謝り続けるより仕方ないと言っています。しかし、そんなことをいつまでも続けていては、日本民族を卑屈にしかねないし、国内の反発も出てくる。要はあの「歴史」から逃げずにきちんとこれに向き合うということです。このことはのちほど述べます。

まずは私が現役の頃のお話をいたします。例えばPKO等で日本が求められる役割を果たそうとしても、こういう日本側の真面目な努力に対して「歴史」を忘れたのか。自衛隊が海外に行くなどとんでもない、と言う声が中国や韓国から出てくる。日本が当然の役割を果たそうとすると足を引っ張られる。PKO法案の時は大変でした。社会党の方ともずいぶん議論したのですが、あの方々は「戦場に自衛隊を送るなどとんでもない。戦場に可愛い息子たちを送るな」ということでした。そうではないですよね。カンボジアに自衛隊が行ったのは、戦闘が終わり平和になったあと、道路を作り、橋をかけるといった仕事のためだったのですから。結局、PKOは法案も通り、立派な仕事を始めております。思い出すのは、カンボジアに自衛隊が行った時、これを誰よりも現地で待っていたのは、中国の人民解放軍なのです。当時、駐屯地が隣りあわせだったらしく、夜はお酒を飲みながらカラオケなどやったのでしょう。当時の日本側の人達は、そのことを本当に懐かしがっていますよね。

他方、韓国ですが、今の状況は残念でなりません。私は韓国にもご縁があり、ちょうど大統領が全斗煥さんの頃でしたね。ソウルの大使館におりましたので、友人も非常に多いのですけれども、あの時の、しっかりした日韓関係は変わってしまいました。私は金大中氏とハーバード大で一緒だったものですから、彼とも非常に親しかったのです。それは別として、彼が大統領として日本に来て、小渕恵三さんとの間で作った日韓の共同声明が、両国関係が最高点に達した時だったと思います。いずれにせよ、今はそうではありません。よく言われますが、韓国の人は、法ではなく「情」で国を治める。「情」がわっと沸き起こると、「法」をなぎ倒す。そして時の政権なり、裁判所なり、特定の運動なり、自分達が考える「正義」が中心テーマとなる。今の政権は、65年の日韓基本条約について、さらにそれ以前の日韓併合条約(1910年)、それに基づく日本の植民地支配についても問題にしていますが、あれは「正義」にもとるということでしょう。それをベースに「法」ではなく「情」で治めるというのですから、なかなかやっかいですよね。他方、日本側は、65年の当時の決着、国際的な約束は守ってくれよという立場です。韓国の方は国際的な約束よりも俺たちは「正義」をどう考えるかということだと訴え、それを背景に国民の情が盛り上がる。日本との関係においては、「情」が盛り上がるとろくなことがありません。36年の植民地支配の恨みつらみ、そういう悩ましいことがあります。たしかに、日本の植民地支配のベースになった関係条約の有効性の問題については、14年にわたる日韓正常化交渉の過程でも、いろいろ激しい議論がありました。しかし、そこのところをいわば玉虫色の形でお互いに譲歩し、妥協して、これからはそこを乗り越え新しい日韓・韓日関係を拓こうというのが、65年の両国の正常化だったのですが…。

参考までに書いてありますけれども、あの当時、日韓は長い交渉のうえに決着しました。その時代背景として東西の冷戦がありました。そんなことで米国なども、日韓がぎくしゃくしたら困るわけです。ですから節目節目で、日韓の緊張を解きほぐす努力をしたのは、実はアメリカなのです。上は大統領、国務長官、現地では何より韓国駐在のアメリカ大使、日本駐在のアメリカ大使、もっと遡ればダグラス・マッカーサー司令官。吉田茂総理と李承晩大統領(二人とも乗り気でなかった)の会談をアレンジしたのは、マッカーサー司令官でした。この会談で、有名な虎談義がありました。吉田さんは昔、安東(現在の中国遼寧省丹東)の総領事だったのですが、あの当時、対岸の朝鮮半島はしょっちゅう虎が出たらしいです。そこで「今でも韓国には虎が出るのですか?」(吉田)「いや、朝鮮の虎は豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時、みんな殺してしまった」(李承晩)と。

最近の例でいえば、15年の慰安婦問題の決着を今の韓国がひっくり返そうとしているわけですが、あの決着の時も当時のアメリカ政府がずいぶん心配して、決着に向け内々、尽力したと言われています。でも今のトランプ政権にそのようなことは期待できません。東西冷戦も終わりましたし、北朝鮮の問題もありますからね。北朝鮮の脅威に対するためにも、日韓はしっかり手を結ばなければというひと頃までのメッセージが、今の韓国の政権にどこまで通じるか。しかし、アメリカにしても、今日の日韓関係は困るのではないでしょうか。いずれにせよ、申し上げたいのは、節目節目でアメリカが日韓の肩をもむために、大きな役割を果たしたということであります。

別の会で本席にいらっしゃる東郷和彦さんも言っておられましたが、国力が上伸すれば、韓国であれ中国であれ、それが自信につながって、日本との過去を克服してより確かな未来へ行こうでということになるのではないか。未来志向、未来志向と日本の方から言い募るのは、私は好きではありませんが。北京オリンピック、日韓のワールドカップの共催が行われた頃は、日中、日韓の関係はとても良いものでした。中国、韓国に国力がついてきたという自信がその背景にあったと思います。今はどうでしょうか。引き続き発展し、自信もついていくのでしょうが、しかし特に日韓は逆の方にいってしまっていることが残念でなりません。

2番目は歴史認識、そこに書いてあるいくつかの考え方があります。日本では、1、2のことが、一部の人たちからよく言い立てられます。しかし、いずれも私は間違っていると思います。アメリカ、英国、チャイナ、オランダに包囲網を敷かれやむなく立ち上がったのだと。だからあの戦争は、「自存自衛のための戦争」だったのだと。しかし、そこではABCDに囲われた状況に日本を追い込んだのは、その前の無謀な日中戦争、そこを完全に忘れたまま。「自存自衛のための戦争」という標語は、日本の神社に行くと必ず出てきます。アジア解放のための戦争、大東亜共栄圏、当時のポスターをご覧になると、五族協和と言いながら、真ん中にいるのは一番大きな日本人です。いうなれば、大東亜共栄圏は日本が中心にいて、アジアの五族をその下に従える。八紘一宇、そういう姿勢なのですね。そうでない人もいたのだとは思いますが、そんな姿勢で、長続きできるはずがありません。

悩ましいのは3番目です。「侵略」と言われてしまうと、戦争のために命を亡くした父親、兄、弟は犬死ということになってしまうと。これはやっかいですよね。ただ私の現役時代にのちに総理になられた橋本龍太郎さんと、色々議論をしました。村山談話の頃、橋本さんは遺族会の会長でした。副総理格で入閣しておられた。「遺族会は、もっと純粋なのだ。君たちは誤解しとるよ。兵士たちは、赤紙一枚で引っ張られた無謀な戦争の犠牲者なのだ」と言っておられました。遺族会に偏見を持たないで、こういう人に会ってくれと、遺族会の理論構成の中心で京都にいらっしゃる女性の方を紹介されたのを覚えています。結局、お会いしそびれてしまいましたが。

村山談話で、原案には「終戦」、「敗戦」という言葉が両方使われていました(その経緯は、どうしても思い出せません)。橋本さんは当時副総理格で入閣しておられ、しかも遺族会の代表でした。そこで村山富市総理に橋本さんと連絡をとっていただき、「談話」の概要を電話でお話しいただいたのですが、「書いたものを見たい」とおっしゃる。そこで、事務方が龍太郎先生のところに原案をもっていったところ、お返事が返ってきて、「敗戦」と「終戦」と両様の書き方になっていたのを「敗戦」に全部揃えては、ということでした。「いいじゃないか。潔く敗戦にしてはどうだ」というご意見を伺ったのを覚えています。そういう方でした。

「歴史」に正面からしっかり向き合えなかった戦後の自民党政権。冷戦が終わる前までは、国会での答弁で、「侵略戦争だったと認めろ」と土井たか子さんあたりが政府を追いつめる。すると、「いやいや、あの時代の歴史の評価は後世の史家に委ねたい」。これが国会でのスタンダードな答弁でした。しかし冷戦が終わり、慰安婦など戦後賠償の話が次々と出てきた。韓国でも強権的な全斗煥政権のたがが外れたこともあって、色々と問題がでてきました。他方、自民党政権が退陣しましたよね。その結果、「後世の史家に委ねたい」がガラリと変わり、きちんと歴史に向き合う言い方が定着しました。その嚆矢となったのは、1993年の細川内閣の誕生でした。そしてその後、村山内閣が誕生したのです。村山談話が作られたのは、そういう背景でした。中山太郎さんという外務大臣(海部内閣)がいらっしゃいましたが、国会で朝鮮半島の植民地支配に対して謝罪をされたのです。私は若干ビックリしましたが、「ご立派な答弁でした」と申し上げると、「自分は大阪で医者をやっておって、在日の人たちの苦労を知っている。だから自然にああいう言い方になったのだ」とおっしゃっていましたね。まだ太郎先生は車いすでご存命です。慰安婦問題は、前半は宮沢内閣でした。河野洋平さんが官房長官でしたが、いずれもリベラルな人です。しかし、河野洋平さんは大変でした。「河野談話」の責任者ということで、その後、長い間右翼に付け狙われたりしたようです。

吉田茂氏のことが書いてあります。私が外務省に入った頃、吉田さんは大磯に引っ込んでおられましたけれども。あの方も戦時中、憲兵隊につかまったりしたことなどありました。しかし、よく言われているのは、朝鮮や中国を日本の支配下、影響力のもとにおくということには、大きな疑いを持っていなかった人だということです。ただ、中国問題は非常に大切にしておられました。外務省の研修所に、「ぜひ俺に話をさせてくれ」と、現職の総理なのに遠方から本当にこられたのです。当時、研究所は茗荷谷にありました。そして一言、「君たち、これからの日本外交は中国問題だ。中国をしっかり勉強するように。終わり」それで帰られたということが伝わっています。若干、大げさに伝わっているのでしょうか。私たち外務省に入った者たちは、外国での研修留学で日本を離れる前、全員、大磯の吉田邸に参上して、その謦咳に触れるのを常としておりました。

(2)、このところをよく読んでおいてください。要するに何が言いたいかというと、戦前と戦後、「歴史」に対応するに日本は連続の面があったということです。これはドイツと違うところです。ペーパーにある1の勢力、2の勢力、3の勢力、4の勢力、5の勢力、そして私と東郷さんの古巣の日本の外務省においても。なぜだったのでしょう。外務省においても、実は戦後の外交の中枢に居た人のなかに、戦時中、ドイツにおいて「ハイルヒットラー」で舞い上がっていた人達が大勢居た。私も、この先輩方から色々教えを受けたわけですから、こんなことは言いたくありませんが。1人だけ有名な方を挙げると、牛場信彦さん。最後は福田内閣で大臣までなさいましたが、非常に豪快な人ではありました。対米経済交渉でもしっかり対応されて。当時の外務省にも、欧米派と言われた人もいたかと思うのですが、なぜ彼らが横に置かれたのか。この点について、学者の間でも研究されていて、本も出版されていますので、お読みになったらいいかと思います。

私が事務官の頃、後宮虎郎さんという方がアジア局長でした。大変柔和で、リベラルな方。日韓関係でも、正常化交渉、金大中事件などいろいろな局面で、これにかかわりをもった方です。その後宮さんは、有名な後宮淳大将のご令息です。そんなこともあってか、時折、この1の方々が局長室に出入りしていた。当時のベトナム戦争などの話を聞きに。2番目は“白団”で、研修で台湾にいた頃、私はこの“白団”のトップだった方とはお付き合いがありました。富田直亮さんという著名な方、戦時中、確か広東方面の軍の司令官でしたが、こういった人達が国民党と蒋介石の要請で、そこに書いてあるようなお役目(台湾の軍隊の訓練など)で台湾に行っていたのです。私はその時たまたま台湾にいましたから、富田さんのお宅に時々伺いました。その度に美味しいカレーをごちそうになり、懐かしいです。「富田」と名乗るわけにはいかないので、バイさん(白さん)と中国名を名乗っておられました。辻政信はご存知ですね?シンガポールで華僑に対し殺戮の限りをつくした人です。こういう人が遺族会の背景を得て、国会議員になるわけですからね。奥野誠亮さんという方は、地方の特高の課長です。お付き合いはありましたけれど、終戦直後は、内務省の総務課長かな。「自分の指示で各省庁のヤバイ書類は全部焼いた」と。あの頃、霞が関は裏庭でもうもうと煙が立ち込めていたそうで、そのことを懐かしげに話されていたことがあります。源田実さんは、パールハーバーで有名。戦後は、航空自衛隊のトップになった方です。

田母神論文は、とんでもないものですよ。蒋介石やコミンテルンに騙されて、日本は中国をやったのだと。日本はむしろ被害者なのだと。この論文が1等賞になるわけですから。賞金を出したのは、今日本の各所にあるあのアパホテルのオーナーです。この論文は読んでいただければ、いかにひどいものかわかるでしょう。日本の政治家のなかにも、田母神論文がどうして悪いのかと、おっしゃる向きがありました。私は自衛隊のOBの方々とも付き合いがあるのですが、良識のある高齢のOBでさえ、そのうちの一人は、(田母神論文に対して)「よく言ってくれた!」と言う向きがある。この年代の人たちには、現役時代、ご自分の子弟たちがパパは自衛官と言うだけで、学校で先生にいじめられたことがあった。そんなことへの口惜しさが「田母神、よく言ってくれた!」となるのでしょうか。両者は本来、全く別のことですが。要するに、何が言いたいかというと、日本は戦前と切れてないところがあるということです。戦後、日本的な渡り方をしたのだということです。

先程、お昼ごはんを食べながらお話していたのですが、いわゆる「歴史」を乗り越えるというのは、皆さんのご努力とともに、政権の中枢の人が世論の啓蒙に向けて引っ張っていく意思と勇気とリーダーシップが一番大切だと思います。この点は、日本はじゅうぶんでなかったと思います。

そこに書いてあることを言ったのは誰だと思いますか。リチャード・ニクソンです。彼はウォーターゲートなど色々ありましたが、政治家としては大変な人だったという気がしています。他方、西欧で「タンゴは2人でなければ踊れない」という言葉があります。ドイツが歴史を否定しないで、それに向かい合う真摯な努力をし、それに対しフランスなどはいつまでも「過去」にこだわらないで、大きな心でドイツを許した。戦後の独仏関係はこういうことだったと、私は思います。

お配りした資料にあります陳毅将軍は、上海市長や外務大臣もした方で、紅衛兵と真正面から論争を挑んだ人です。そこに書いてある陳毅さんがおっしゃっていることは私は好きなのですが、「タンゴは2人でなければ踊れない」と同じことです。時間の関係で読み上げません。彼の銅像は今でも上海のバンドに置かれています。

国民レベルの和解は、なかんずく時の政治家の勇気が求められるものですが、勿論それだけでは足りず、市民レベルの和解や、相互交流も重要です。国をまたいだ「相互交流」が盛んになり、その結果そこに「相互理解」が生まれ、それによって、日中、日韓関係にまだまだ足りていない「相互信頼」も少しは出てくるのだと思います。

ドイツの話もさせていただきますが、エリゼ条約は、是非お読みになってください。エリゼ条約の大きな柱のひとつは、次の時代を担う青少年の交流です。またエラスムス計画ですとか、ヨーロッパでは大変広範な学生・学術交流を行っています。彼らの不幸な歴史についても、ドイツとフランスの2国共同で歴史教科書が編纂されました。日韓でこういうものが出来るのは、いつになるでしょうか。日中の学者間で「歴史」の共同研究もやりましたが、これはもう大変だったようですね。日中の成果品については、中国側の抵抗で、いまだに一部は非公開になっているようです。

日韓については、本会合にご出席の木宮先生外がおられるほかに、小此木政夫等の老学者がいらっしゃいますが、韓国との間でこの作業に携わった方たちは、もう2度とやりたくないとおっしゃっていましたね。学者の間でも、「歴史」の議論は大変なようです。

そこに書いてありますように、東アジアの若者たちとの交流は、日本もやっています。色々なプロジェクトがあります。さくら「サイエンスプロジェクト」は、東大の有馬朗人先生が音頭取りをされていますが、アジアから科学技術研究を志す若い青年を呼んで、日本のノーベル賞受賞の方々との出会いもアレンジされていてなかなかいい。それから「Campus Asia 」ですが、今どうなっているのか、先生方の方がご存知でしょう。おそらく、ここ早稲田などがやっているのではないですか。ただ日本の場合、ヨーロッパでやっている青少年交流とはくらべものにならないですよ。規模、広がり、質において。

先生方からも政治家に発信して欲しいのですが、日本は「東アジア青少年交流財団」のようなものを作るべきではないかと思っています。日本にも、ペーパーにあるように、ジェネシスプロジェクトとかいろいろありますが、私は、いずれひとまとめにして、内閣府のようなところが「東アジア青少年交流団」のようなものを立ち上げてくれればいいと思っています。

さきほども話していたのですが、報道によれば、日本はアメリカから高いミサイルや戦闘機をほとんど言い値でいっぱい買っているようです。ミサイルの一、二発や戦闘機一機分でじゅうぶん(青少年交流財団は)できるのではないでしょうか。昨今のような中日関係ですが、中国には各大学に日本研究センターがいっぱいあります。一番すごいのは社会科学院。それにくらべて、日本はどうでしょう。早稲田には青山瑠妙先生がやっている小さな研究所がありますが。日本の中国研究、韓国研究は層が薄くなりつつあるような気がしています。日本の若い人が将来の仕事として中国研究に取組む、その辺はどうなっているのか。「ほかでもない。中国のことぐらいは日本が一番知っている、豊富な人脈もあるよ」と呑気なことを言っていると、気がついてみればアメリカやヨーロッパの方が進んでいたということにならないかと、心配しております。東アジアとの関係は、時間はかかりますが、将来に向けて種をまいていく必要があります。

若い世代の教育は、前から言われている話です。防衛大学が、五百旗頭眞さんの頃からと思いますが、近現代史から出題し始めたのだそうです。ところが、とんでもないことをすると。誰が反対したと思いますか?防大のOBだそうです。近現代史から問題を出せば、学生たちも勉強しますよ。『若者よ、歴史を勉強せよ』というペーパーは差し上げましたね?これは本当の話ですから読んでおいてください。過去の「負」の部分を探ろうとすれば「自虐史観」と攻められ、入学試験で近現代史から出題しようとすると、つまらんことはやめとけという勢力が今でもある。

4番目は、これはある方の受け売りで、1つのアイデアだと思いますね。9月3日はミズーリ号で日本が「負けました」と言って、刀を置いた日でしたよね。

「戦後」をどうやって日本は渡ってきたか。日本は落第生で、ドイツは優等生。これは中国や韓国の人達がよく言うことです。はたまたドイツ人もそういうことを言う輩がいます。確かにそういう面がないことはありません。他方、ドイツがやったことは、ドイツ人も含めあくまでナチスの犠牲者に対する個人補償ですよね。そこでドイツがやらなかったことが何かというと、戦争の被害に対する戦争賠償です。これはいずれ東西ドイツが1つになった時の課題だと言われてきましたが、統一された後は、「もう昔のことだ」と。言うなれば、サボったのです。他方、日本は、胸を張っていいと言うのはおかしいかもしれませんが、賠償、準賠償、韓国のような旧植民地への手当も含めて資金的な償いをやっているのです。フィリピン、インドネシア、(南)ベトナム、ビルマに対する戦争賠償をやりました。(南)ベトナムへの賠償は、大した被害がなかったのに何だと当時の社会党が怒ったのを覚えています。ドイツはこれはやりませんでしたね。そこでポーランドの議会は、「ちょっと待てよ。ポーランドは散々痛めつけられたのにドイツから戦争賠償をもらっていないじゃないか」と言って、これを求める決議をしましたが、結局そのままになっています。ポーランドは、ワルシャワ街全体を破壊されたわけですからね。面白いのはギリシャです。アンゲラ・メルケルさんは、債務過剰になったギリシャに大変つらく当たったでしょう。しかしそのギリシャは戦時中ナチスの占領下になり、パルテノンにナチスの旗が掲げられたことがありました。そこでドイツに痛めつけられたのだから、戦争賠償を要求しようじゃないかと当時の政府が言い出したのですが、結局これも大きな問題になりませんでした。その理由は、ドイツは官、経済界の手で手厚い個人賠償をしたということと、加えて「歴史」への向き合い方が、極めて真面目だったからということがあります。それがなければ問題は引きずったでしょう。私はこの話を早稲田大学での成人教育でしたことがありました。その時、話題になったのが、グレゴリー・ペックの『ナバロンの要塞』という映画。ナチス占領下のギリシャの話です。

日本は賠償、準賠償、韓国への手当も含めてやってきた。ちなみに、インドネシア、フィリピンなどへの賠償の支払いは、その後、形を変えて「経済協力(ODA)」となり、東南アジア諸国への日本からのODAの提供は大変大きな額にのぼり、これが東南アジア諸国の経済発展に寄与し、それぞれの国の民主化へとつながってゆきました。このことは、私たち日本人は、もっと大いに語ったらよい。もっとも、その中にあって、カンボジアのように、近年「民主化」とは逆の方向に舵を取りつつある国もある。現役時代、カンボジア和平の構築に事務方の一員としてかかわった者としては残念です。

それから台湾にも遅まきながら。台湾については、宮沢内閣の頃、私が内閣の外政審議室長の時代ですが、それまで踏み倒していた台湾の人たちの郵便貯金の問題で対応(支払い)したので覚えています。真面目に対応した部分もあるのですよ。サンフランシスコ条約に遡る話なのですが、旧植民地時代への手当ということになれば2つあります。残されたこととして台湾と北朝鮮です。台湾はさすがに大人、という言い方はいけないかもしれませんが、その後問題にしていません。韓国とやったようなことは要求されなかった。問題は北朝鮮です。これは、そのまま残っているわけです。韓国と通った同じ道を北朝鮮とやらなければいけない。私は北朝鮮との交渉を北京で何度かやりましたけれども、冒頭にぶつけられたのが賠償の問題でした。どえらい金額だったのを覚えています。北朝鮮は当時、「日本との戦争に勝ったのだから戦争賠償を払え」という立場でした。しかし、これはあくまでも「請求権」の問題です。例の小泉訪朝(2002年)の時に、北朝鮮も、そのように考え方を変えました。北朝鮮との国交が正常化された時のために外務省は、韓国にあれだけ払ったのだから、今日的にそれに見合った額はどれくらいかという数字は内々に持っているようです。

ドイツは戦争賠償はやらなかったけれども、個人補償はやりました。有名なのは基金の創設です。政府だけではなく、ドイツの企業がマッチングベースで金を出しているのですね。(日本の)経済界は残念ながら、この種のことに消極的だったと思います。本当に苦労したのは慰安婦基金を立ち上げた時でした。他の方々(政治家、官僚、労働組合、そして何よりも志ある国民のお一人、お一人)は、皆さん、本当に協力していただきました。65年日韓条約で決着済という考え方もあるかもしれないけれども、これは女性の尊厳を最も大切なところで傷つけたというので、政治家、役所、労働組合へ私と古川貞二郎副長官でお願いに行った。そのなかで経済界だけは見向きもされませんでした。今、徴用工の問題で経済界がどういう対応をするのかと思い、あの頃を思い出しながらみています。

他方、ドイツはナチス政権下の強制労働などの被害者に対応するために「記憶・責任・未来」という基金を作り対応しました。また政治の面では、教育・司法の分野でしっかりとした仕組みをつくり、正面から「過去」に向き合ったということです。ベルリンにいらっしゃった方もあると思いますが、ブランデンブルク門の近くの大きな広場に、ナチス犠牲者の慰霊のための数多くの石材が置いてあります。ここは日本で言えば銀座のど真ん中といってもいいような場所ですが、こういうものがやたらにドイツにはあるようであります。それから教育の面。若い人は今でもアウシュビッツに行き、草取りをするというようなことをやっているようです。司法の場でも、ナチスを美化するのは有罪でしょう。ナチスの戦犯には「時効」は停止されています。そして今でもドイツ当局自ら、ナチス残党を追いかけている。日本は、こういった面で足りなかったと思いますね。「謝罪」ではなく、「歴史」に向き合って、そこから未来への教訓を掘り起こしていくことが重要なのです。しかし、「歴史」に向き合って真実を掘り起こそうとすると「自虐史観」だと一部勢力から言われる。むしろ、そういう「過去」は否定して、そうすることで「美しい日本」を取り戻そう、「日本人の誇り」を取り戻そう、そのようなことを主張する一部の勢力があります。しかし、私はそういう所作こそが、国際社会から見れば、彼ら彼女らが取り戻そうとしている「日本民族の誇り」を実は一番深いところで傷つけているということを、この人達にわかって欲しいと思うのです。勿論、日本は戦後、ソ連による七〇万人に及ぶ日本人抑留などについても、大いに非を鳴らしたらよい(いわゆるシベリア抑留。軍人、軍属のみならず一般人も抑留し、過酷な労働を強いた。6万人が死亡)。米国による日本の敗戦直前の広島、長崎への原爆投下もひどいものです。

企業について辛口なことを申し上げましたけれども、日本でも中国との関係で、花岡事件、或は西松建設の件がありますが、2007年、最高裁で有名な判決がありました。原告の請求が退けられるなかで、しかし、被害者の救済に向けて努力せよと。そこで、企業の側でそれなりの措置をしたということがあります。同席の東郷さんの方が、このへんのことはわかりやすく説明できるかと思うのですが、日韓の請求権協定は、政府としての「外交保護権」というのだそうですが、それをああいう条約を結んだので、国はこれを放棄したということです。しかし個人の請求権は消滅したわけではない。他方、全部これで決着したのだと、個人の請求権(訴権)もなくなったのだという国会答弁もあったのですね。だから、政府の答弁が若干統一性を欠いていたということ。このことについては、小松一郎元法制局長官(外務省出身)は自著の国際法の本[『実践国際法』(信山社 2011)『国際法実践論集』(信山社2015)]で反省の弁を書かれていました。個人の請求権までは否定するものではない。私もそっちの方はすとんと胸に落ちるのですよね。だから国と国との間の決着について異議があれば裁判所に訴えればよい。それまでも否定するものではない。今度の徴用工のケースは、まさにそれである。実は戦後、大蔵省と外務省の間ですごい論争があって、個人の請求権は残しておけと主張したのは、大蔵省なのです。むしろ外務省が、個人の請求権もなくなったという立場だったようです。時の法規課長は大蔵省と論争して負けました。大蔵省が個人の請求権は残すという立場をとった理由は、シベリア抑留で補償をよこせと日本政府に言ってこられたらかなわん、ということだったようです。補償の要求の先はソ連に向けよということ。いずれにせよこの問題(花岡事件は中国人が原告になってのケースですが、昨今の徴用工の問題も同じ性質のもの)は、2007年4月の最高裁で一応ケリがつきました。(この最高裁の判決が出る前ですが、小松君は、同じことを確か“救済なき権利”という言葉で説明していました)そこで、日本で訴えても勝訴の道はない、と。日本で訴えても仕方ないので、韓国や中国で訴えを起こしているのですね。

ドイツについて。不連続だったと申し上げましたが、コンラート・アデナウアーとかウィリー・ブラントとか、この人たちは、ナチスと戦って当時ドイツにいなかったのです。そのような人たちが、戦後戻って来て、国政のトップになった。そこが日本と違う。

最後になりますが、エリゼ条約についてです。奈良に行くと荒井知事に、京都に行くと京都の市長さんに、これらの地を舞台に東アジア版のエリゼ条約を作れないものだろうかと言っております。京都なら国際文化会館で、あの美しい風景を背景にして、日中韓の首脳が合同写真。そこで京都条約を作れないものかと。京都や奈良は、昔、東西の交流の拠点でした。幸い、日中韓の間には、3国間でまわり持ちで開く首脳会議の場がある。今はあまり機能していませんが、いずれにせよ、そのような場としては、東京は似つかわしくない。中国なら北京ではなく西安、韓国なら百済や慶州がいいでしょうか。今の日韓関係を考えると、夢物語かもしれませんが、東アジア版のエリゼ条約が出来ればいいなと思います。

和解学の皆さま方には敬意を表します。ただキャンパスのなかで小難しい議論をなさるだけではなく、キャンパスの外に出て、まだ理解の足りない国民に、皆さんの思いとメッセージを届けていただきたいと思います。「行動せよ」ということです。東アジア版のエリゼ条約でもいいし、「東アジア青少年交流財団」のことでもいいし、発信していただきたい。昔、日本ペンクラブがありましたが、今もあるのでしょうが、そのペンクラブは、例えばヘイトスピーチについて問題にしているのでしょうか。昔は世の中が乱れるとペンクラブがメッセージを出していたのを覚えています。これからの時代もきちんと発信すべきです。いずれにせよ東アジア3か国の政治のリーダーの資質が厳しく問われていると思います。日本で9月までにどういう内閣ができるかわかりませんが。

浅野:ありがとうございました。青少年交流に象徴されるように、政治家こそがその方向性をはっきりさせ、実現させていく主体になること。日本においては戦前と戦後が連続しているので、ドイツとだいぶ違う形で歴史問題に取り組まれてきたこと。エリゼ条約に象徴されるような新しい枠組を作れないか。そのようなお話をいただきました。

10分休みにして、3時半からリモートで参加している方から質疑応答をいただきたいと思います。

浅野:では、議論を始めたいと思います。まず私の方で補足させていただくと、谷野先生の経歴として84年から韓国で公使を3年間されて、そのあとアジア局審議官、89年からアジア局長、92年に内閣外政審議室長、95年の9月からインド大使、98年4月から中国大使、2001年に帰られて12年から早稲田大学アジア太平洋研究科で客員教授をされました。


谷野:歴史をちゃんと後世に伝えることの大切さということを、日本で熱心に話されたお一人は、ほかならぬ平成天皇だと思います。お誕生日や元旦の平成天皇のお言葉はそこに書いてありますので、読んでください。福田康夫さんの北京でのスピーチの一部も皆さんに差し上げてあります。有名なのは、ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領のスピーチ。「過去に盲目となる者は、現在も盲目となる」というあのスピーチですね。しかし、ここには「謝罪」の一言もない。かなり長いスピーチですが、彼が繰り返し言っているのは、後世の自分たちは、あの忌まわしいナチスの「歴史」から逃げることなく、しっかりとこれに向き合い、これを後世に伝えよ、これから逃げるな、忘れるな、それが今の世代の我々の責任ということです。

日本はすぐ謝ると言われますが、私は「お詫び」という言葉は嫌いでね。はっきり「謝罪」と言えばいい。慰安婦の問題で使ったのが「お詫び」だったものですから、この言葉が一人歩きしているように思います。しかし「お詫び」にせよ、「謝罪」にせよ、日本はお話したように総理大臣のレベルで散々やってきました。

あと2つだけ。(写真を見せて)これは8月15日の靖国神社の状況です。たまたまこの方が同じようなことをなさった時に現場にいたものですから。この老兵の方はおそらくアルバイトだと思います。その時、韓国人の学生たちが小泉純一郎総理の靖国参拝に反対するプラカードを持って入ってきた時に、この写真が撮られた。この老兵が「貴様ら朝鮮人は、昔は日本人になりたがったくせに」「ぶった切ってやる!」などと言って写真のように抜刀のふりをするのですが。これを欧米のメディアが撮影し、雑誌の表紙にもなった。「日本はちっとも変ってない(History repeats itself)」と言われてしまうと、悔しい思いをしたものです。

(ペーパーを見せて)それから次はこれです。終戦50年の時に、色々な方々が声明を出したいということで、政治家だけでなく、音楽家、東南アジアからも何人か(政治家たち)を呼びました。場所は武道館です。さすがにこれは、ほとんどのメディアが報道しなかったのではないでしょうか。そこで採択されたのが、お手元のペーパーです。国会でも声明を出そうという話になり、一応、決議の案文ができたのですが、これも中途半端な内容。しかし、それでさえも多くの人が欠席しました。衆議院では通りましたが、参議院ではとても駄目ということで、断念することになりました。そういう状況を見て、村山総理は、自分の方で何か談話を出すかということになったのです。「村山談話」と言われていますが、あれは総理大臣の談話なのです。一部の政治家が「あれは村山さん個人の考えだ」「あんなもの、無視すればよい」と言っていましたが、それは違うのです。自民も含めた連立内閣で、閣議決定された重いものです。


浅野:1995年の終戦記念日直前の7月に出された国会決議は、当時、戦後50年決議として新進党が中心になって出たものですね。新進党からも離反者が出ながらも、決議が出たと思うのですが、プリントにあるような民間の声明によってかなり驚かされたことが国会決議のきっかけだったのですね。

 

谷野:そうです。


木宮:大変興味深いお話をありがとうございました。質問とコメントを兼ねてということになりますけれど、非常に気になるのは、韓国に対する日本の世論のイメージがものすごく悪くなってきているということです。以前は韓国に申し訳ないことをしたと思っていたような人達からも「韓国はどうしようもない」「いつまでも昔のことばかり言っている」といった声が最近は聞こえてきます。私なりに考えてみると、以前は経済レベルが一段下であった中国や韓国が、経済力をつけ、国際社会のなかで発言力を増してきている状況のなかで、日本の若い人というよりも前の世代の人が、これ以上中国や韓国に負けられないという気持ちになってきたのではないでしょうか。これまでは譲歩してきたが、これ以上はできないし、するべきではないのだと。最近よく使われる言葉で、歴史戦争というのがあります。歴史問題をめぐる日本の状況は戦争のようで、中国や韓国に仕掛けられてきていることに対して譲歩せず、戦って、勝たなければいけないという認識を持つ方が増えてきました。韓国に対しては、韓国の方が約束を破ってきたではないかと。日本と中国や韓国との力関係は、おそらく劇的に変わってきたのです。谷野先生自身が外交をやっていらした頃と今日では、けっこう環境が変わってきたことだと思います。この問題をどのように考えたらいいのか。その点を説明していかなければ、日本の世論は今の状況に対応しきれないと思いますが、いかがでしょうか。

 

谷野:おっしゃる通りかと思います。私の後輩たちも、徴用工の件で、「今度は100%勝ちにゆくんだ。一歩も譲れない!」とこぶしを振り上げる向きが少なくありません。韓国が力をつけたのは確かですが、しかし、そうであれば、お互いに足らざるものを補い合い、共存共栄を目指すべきでしょう。1年ぐらい前でしょうか。日本側が徴用工の問題に反撥して一方的に制裁を課したこと(3品目の輸入制限措置)がありました。私はこの分野には疎いのですが、5Kのテレビのその部品(3品目のうちのひとつ)を日本は供給しているのです。5Kのテレビを作る技術は韓国にしかないのだそうですね。そこでも補完し合いながらの世界なのですよね。強くなったら強くなったで、お互いに補い合い、新しい世界を目指す方向にどうしていかないのかと思います。中国との関係も同じです。経済界は、もっと声を上げていいと思いますね。経済界から、昔のようにあまり独自の声が聞こえなくなりました。昔は経団連の会長が、時の総理を怒鳴りつけたこともあったそうですよ。

木宮さんに伺いたいのですが、先生のところの朝鮮研究センターはどうですか。東大なら東大で、自分の一生のテーマとして、朝鮮半島の研究で身を立てようという若い世代は細ってきてはいないでしょうか。

 

木宮:今は外村先生がセンター長をされています。私のところにも大学院生はけっこういるのですが、半分以上は中国や韓国からの留学生ですね(笑)もともと関心自体があれですし、私たちの時代に比べれば、研究者になるということに魅力を感じなくなってきているかもしれませんね。

 

谷野:ですからね、ポスドクのコースの人たちに、政府はもっと資金的な手当てをしたらいいと思いますよ。学問で身を立てるにしても、その前に企業や、役所、外務省などで働いてみてもいいのではないでしょうか。無給の時期が長すぎるのはよくないです。昔聞いた話ですが、東大の高原明生先生のゼミには、1人として日本人がいないそうですよ。今も、状況はあまり変わっていないのではないでしょうか。大半は中国の学生で、何を勉強しているかというと、中国では教えてくれない文化大革命の研究。その次に多いのは韓国の学生ということでした。気が付いたら中国研究で日本が一番遅れていたということにならなければいいけどね。

他方、若い人は、私の孫もですが、今韓国ドラマにハマっています。ご存知の方は多いと思いますが、『愛の不時着』。また韓国の繁華街、明洞は、週末は日本人の若者たちで溢れかえっています。女性は韓国の女性を真似て、真っ赤な口紅をして歩いています。


浅野:青少年交流センターのお話をされましたが、外務省なら立派な文化交流としてできると思うのです。教育問題は文科省ですよね。教科書、靖国も教育問題です。文科省が協力してくれたらもっと出来るのにというもどかしい思いをされたことはありましたでしょうか。

 

谷野:教科書の時は色々ありました。偏向した教科書の手直しを命じられたのは中曽根総理御自身です。また日韓関係を思いやり、玄界灘を行ったり来たり往復していたのは、森喜朗さんとか、加藤六月さんとか、三塚博さんとか…いずれも剛腕な文教族のドンで、日韓関係に強い思いを持った方たちです。これに対し、ソウルにはこの人たちを受けるしっかりした韓国側の政治家の受け手もいたわけです。


梅森:和解学の思想理論班の班長、キャンパスアジアの早稲田側のディレクターをやっております。今日のお話で印象に残ったのは、「タンゴを踊るには2人必要だ」という言葉をとりあげ、ドイツとフランスの和解についてお話になったことでした。ここから戦後の日中関係、日韓関係というものを考えてみますと、戦後の東アジアにおいてはパートナー関係に入るということが遅れた、もしくは難しかったということがあるのではないかと思います。戦後直後に日本の知識人、歴史学者や社会科学者、文学者も含めてですが、彼らが戦争体験をそれぞれ受け止め、それに対して行った反省には本当に真摯なもので、思想的にも非常に重要な問題提起がされていたのではないかと感じています。しかし基本的には、韓国や中国からの厳しい批判を受けることなく、自己反省という形で行われるしかなかった。経済成長時代になって生活が安定する一方、その記憶が薄れ、戦争を経験した世代が少なくなっていくにつれ、真剣に戦争を反省するという雰囲気が失われたのではないかと考えています。現代の日韓関係、日中関係は非常に悲観的で最悪な状況にあるという見解ですが、別の見方をすれば、2000年以降市民レベルでは初めて、タンゴを踊るような状況が到来したとみることは出来るのではないでしょうか。タンゴはヨーロッパで行われたようなエレガントなものではなく、お互いの足をふんだりするようなものであったとしても、それが我々の踊り方だと前向きな形でとらえればいいと思うのですが、先生のお考えをお聞かせください。

 

谷野:おっしゃることはわかりますが、若干辛口なことを申し上げます。市民レベルでタンゴを踊るといっても、中国については踊りの相手になってくれる大きな市民社会、或はNGOの類があるのでしょうか。日本にだって、しっかりした市民社会はありますか?あるならば、いろいろなことについて市民のレベルでもっと声があがっていいはずなのだけれども。かつて活発な活動をしていた日本ペンクラブのことも、あまり聞きませんね。韓国との関係について言えば、表に出てくるのは乱暴なヘイトスピーチばかりです。もっともそんな中、中国や韓国との間の「戦後補償」の面で、活発な活動をしている人権弁護士のかたまりがある。この方々の活動には大いなる敬意を払っています。むしろ中国については、お隣の劉先生の意見を聞きたいですね。どんな人と踊れますか?

 

劉:私の考えは、谷野先生がおっしゃったことと近いのですが、中国の市民社会がいつどのような形でできるのかというのはなかなか見通せないのです。知識人同士の交流というのが、長期間にわたって重要ではないかと思います。そこに1つの共同体が出来れば、将来につながる何かが蓄積していくのではないでしょうか。タンゴを踊るということでなくてもいいのですが、調和がとれる議論ができれば、現段階では十分ではないかと思います。(タンゴまでは?)まだ時間がかかるかと思います。

 

梅森:とりわけ日本の現状に関しては、私も危惧を持っております。その点では、2人の先生方が言ったことに関して、共感することが多くあります。キャンパスアジアで学部の学生たち、中国や韓国の留学生たちと付き合うことが多いのですが、本当にいろいろな文化を身体的に共有している世代です。ある意味非常にフラットに対話できる状況を、はじめて自然なものとして受け入れてきた世代が登場したという印象を持っています。なんとかこうした感覚を伸ばしていけるように、大学という教育の現場のあり方を考えていけたらと思います。ありがとうございました。

 

浅野:関連して一言だけ言わせていただきたいのですが、政治家のモラルという問題に帰着していいのかということを伺いたいのです。モラルのない政治家を選んでしまうこともありますので、政治家を選ぶシステムについても、お話していただけますでしょうか。

 

谷野:国政に優秀な人材を送り込む仕組みを作らなければいけないとは思います。今の野党は大きな塊として期待するには、あまりにもだらしなすぎる。政党の資金の助成法で、5,6人でも政府から金がもらえるのですよね。それで小さな政党がやたら出来てしまうのです。私の理想は、日本が直面する大きなテーマについて、やはり大きな2つの政党が切磋琢磨して、時には政権交代が行われること。そうすれば政治の面での緊張感が生まれます。安倍さんは2回消費税を上げたのですよね。大変な功績ですが、これと表裏一体となっていたのが社会保障改革です。財政と社会保障を一体として改革を進めることが大切ですが、後者にはほとんど手をつけていません。原子力発電のスタンスが違い、これで二つの民主党が一緒になれないわけでしょう。党議拘束というのをはずしたらどうでしょうかね。同じ政党のなかで問題によって違う意見があってもいいと思うのですがね。

それから2世、3世はいいですが、親父の地盤をそっくりもらうというのはよくないです。出るなら英国のように別の選挙区から出ること。要するに、一番遅れているのが国会改革です。

 

土屋:従軍慰安婦に関するご報告のなかで、民間の経済界の反応が悪くて困ったとおっしゃっていたのですが、具体的にはどのような反応だったのでしょうか。それから日韓の間で経済協力が占める割合は大きいと思うのですが、経済界がもっと発言すべきだというお話がありました。具体的にはどのような方向でお考えになっているのか伺いたく思います。

 

谷野:このような席で経済界の話はあまりしたくないのです(笑)あの問題は、女性の尊厳の一番深いところで傷をつけたというので、各界各層に協力していただきました。しかし経団連とかは、「昔の話ではないか」という反応で、丁寧な言い方ではありましたが、団体として金を拠出することは拒まれました。そんな中、秩父セメントの諸井虔(ケン)会長が、ポケットマネーから出すと言ってくださいました。このエピソードを今でも覚えているということは、いかに当時の経済界がこの種の問題に冷たかったかということです。しかしアジア女性基金の方は各界の協力、そして何よりも国民の方々の協力で、大きなお金が集まりました。「基金」に事務局が必要となる。そこで、事務局の経費がかかるのですが、これは政府の予算でやりました。あの財布のヒモが固い大蔵省の主計官が「いくらでも金はつけるから言ってください」と、わざわざ私のところへやってきてくれました。おそらく、武村正義蔵相の指示だったのでしょう。経済界は別として、ほぼオールジャパンで支持していただきました。

韓国では最近、例の「挺対協」が慰安婦のために集められた金を別の目的に流用していると聞き、腹が煮えくり返る思いですね。もっとも今問題になっているのは、別の原資ですが。私たちは騙されたのではないかという向きもあります。僕ら、特に女性基金の事務局の方たちは、本当に一生懸命にやったのです。

それから経済ですが、日韓は、話し合えば相互の間でいろいろなことができるはずです。日韓経済委員会というのもあります。反韓の感情を和らげるためにも、経済界はもっと声をあげていかなければなりません。日本からの3品目をある日突然、厳格な輸出規制のもとにおいたでしょう。あれは言葉が過ぎるかもしれませんが、当初、日本の政府の関係者も言っていましたが、徴用工問題への報復措置です。官邸が経産省に何か探してこいと言って、見つけさせたのでしょう。その結果、韓国では、例えば日本向けの5Kのテレビも組み立てられない。素材の一つは、例の3品目の一つのようです。その後、事態は改善されつつあるようですが。

 

浅野:安倍内閣では経産省の力がとても強く、経産大臣が外務大臣を上回るというのはあるでしょうか。

 

谷野:70周年の安倍さんの談話を書いたのは、経産省から行っている総理秘書官だそうですね。外務省は殆ど事前に相談を受けなかったのではないかと思います。

 

浅野:経産省の外交への関与は、貿易摩擦のみならず、経済協力のなかで生まれてきたのではないかと思うのですが。アジア女性基金に対して、財界の人が協力しないというのは、経産省自体がネガティブだったということはありませんか。

 

谷野:それはないです。私の若い頃も、行政の縦割りをなくさないといかんということがありました。行政改革、官邸を強くしなければいけないということですね。中曽根内閣、橋本内閣で官邸の強化が実現されました。私の若い頃は、内閣官房は国会便覧で2ページぐらい。 今は、内閣官房は十数ページかな。ただ、今、政治の中枢で権力を使うにおいて、抑制や慎ましやかさが欠けているような気がする。そして一部の「官邸官僚」の跋扈も問題です。やはり権力の中枢に行くとのぼせ上っちゃうのかなあ。

 

浅野:経産省の力が強くなってきたのは、いつ頃からとお感じになりますか。

 

谷野:それはもう、今の内閣でです。しかし私は、経産省にも友人が多いですからね。いい人達ですよ。対中円借款、ODAの時も、それぞれの思惑はありましたが、協力しながらやりました。大平内閣の時、対中円借款で、消極的だったのは実は外務省でした。アジア局だけは突出して熱心だったのですが。その時、省をあげて、対中ODAに熱心だったのは通産省です。経済界が背後にありました。そのなかで覚えているのは、対中ODAを紐付けにしたい(タイドローン)、要するに提供した資金で日本の機材とサービスを買うべしということです。僕らは、それはいかんと主張しました。ODAをてこに中国市場を乗っ取ろうとしていると欧米が猜疑心を持っていたから。そこでいわゆるタイ、アンタイの問題が大論争になった。結局、大平正芳総理のご裁断で、対中ODAは「原則、アンタイとする」ということになりました。中国もわかってないのですが、対中ODAで一番儲けたのは日本だといまだに言うのですね。とんでもない。どこに金がいっているかというと、韓国であり、中国の企業です。インドの時もそうでした。インドの地下鉄は、円借款で手当てした。しかし日本は入札で負けた。その結果、資金は日本が提供し、車両は安い方の韓国製、それでいいではないですか。

 

浅野:経済協力をこれだけやったのにという恨みのようなものは、経産省にはないのでしょうか。

 

谷野:中国は、日本からのODAは賠償だと、そういう宣伝をしているのですからね。北京にいた時、東京から聞こえてきたのは、中国に日本からのODAについて感謝の意を述べさせよということでした。確かに、中央のトップのレベルでは、言い方が決まっていました。日本からの対中援助に「日本はよくやってくれた。高く評価する」(加以高度評価)と。何だか、殿様が扇をバタバタして「ほめてつかわす」といった感じ。しかし現場に行きますと、もう感謝、感謝なのですよ。無償援助の病院などに対して、そういう声がありました。ところが日本は対中援助で儲けているということを、ある会議の場で、中国の総理などが言う。そんなことを言わせたらいけないと、その時、同席していた財務部長に抗議の手紙を書いたことも覚えています。今ではインドが一番の日本のODAの受け取り手です。

 

猪股:貴重なお話をありがとうございました。私は広島市にある社会理論・動態研究所で、満週の農業移民の研究をしております。梅森さんのご指摘と重なるのですが、市民レベルの交流から始めるしかないのではないかというのは、私の結論であります。特に日中関係に関しては、日本政府と中国共産党の間で何か話をするという状態ではありません。

長春市の人民海外交流協会とか、外事弁公室副会長(当時)の欧碩さんという方から1年前に名刺をいただいたのですが、「今は政府間の交流をする段階ではない」とハッキリ言っていました。長春市の外事弁公室の人は、くぎを刺すように自治体間の交流も難しいとおっしゃって、まずは民間交流から始めましょうとスピーチをされていました。

谷野さんは、市民がしっかりしていないとおっしゃっていました。弱体化はしていますが、まだ力強く運動している人がいるということを強調させていただきたいと思います。私は岐阜県をフィールドにしていているのですが、戦後50周年の時に市民レベルで出した『50年展ぎふ』という報告書があります。中をみると、常石敬一さんを呼んでいたり、731部隊のことなども地道に取り込んでいます。今も岐阜市の平和資料室は市民のボランティアによって運営されています。その運営者は、岐阜大学の非常勤講師で、平和学を教えられている今井さんという方ですが、ライフワークとして731部隊に取り組まれています。この方からもらったのが、こちらの731部隊のパンフレットです。731部隊博物館は、新しく建て替わり3代目になっているのですが、外村さんとも一緒に見に行きました。中国は本当に力を入れていて、考古学的に、731部隊の遺跡を発掘しているのです。

つまりは、右派一辺倒になっているというわけではないと申し上げたかったのです。メディア班で出たかもしれませんが、地方新聞が根強く、岐阜新聞、信濃毎日新聞は力を持っています。マスメディアから見た市民の言説みたいなものを受け止めてしまうと、それだけでは偏りになってしまうのではないでしょうか。地元密着で、ハルビン市に731部隊の博物館を見に行ったりする人もいるということをお伝えしたかったのです。

 

谷野:岐阜にそういう博物館はあるのですか。

 

猪股:岐阜駅の近くの駅ビルのなかに、平和資料室といって、岐阜の空襲について展示している記念館があります。731部隊については、常設展ではなく、特別展でやりました。

 

谷野:岐阜の知事さんは経産省の人ですよ。

 

猪股:岐阜は市民がうるさいです。上の命令を聞かないというか、反政府的な運動が根強くあります。

 

谷野:ドイツには全国にそういうものがあるのだそうですよ。

 

猪股:日本にも、けっこう各地にあると思います。引揚港の堕胎についてやっている市民グループもありますし。ネットワーク化が出来ていないという問題はあるかと思います。

 

浅野:ぜひ市民運動班に、そのネットワーク化を頑張ってやっていただきたいと思います。ついでにお聞きしたいのですが、化学兵器を処理する仕事が始まった頃に外政審議室長をお辞めになったかと思うのですが、その問題の時、市民の方のご協力とかございませんでしたでしょうか。

 

谷野:ありませんでした。野中広務さんが官房長官の時だったかな。あれは大変つらい仕事で、ひ弱な外務省の職員が化学兵器の室長をやっていて、仕事がうまくはかどらない。そこで野中さんに外務省はとても駄目だからと言って、もっと剛腕な人を他の役所から連れて来てほしいとお願いしました。今はそうなっているはずです。

 

猪股:黒竜江省社会科学院が化学兵器のことはやっていて、歩平先生、劉傑先生はご存知かと思いますが、北京の社会科学院で出世した優秀な研究者です。黒竜江省社会科学院と交流しているABC委員会はありますが、あまり活発な活動はしていません。化学兵器に関しては中国市民社会にはないけれども、1つは社会科学院、もう1つは赤十字社を通すルートがあると思います。

 

谷野:化学兵器のあれはまだ続いているのでしょ?

 

猪股:続いています。高暁燕さんがやっていますね。

 

浅野:市民運動の話が出てきましたので、市民運動班班長の外村先生にお話を伺いたいと思います。市民運動の全国的なネットワークについていかにお考えでしょうか。

 

外村:東京大学の教員で、歴史の研究をやっております。先ほどドイツの話が出ましたが、確かに博物館も歴史教育もしっかりやっている国です。しかし日本の場合も、そんなに捨てたものではありません。平和博物館が各地にたくさんあり、手弁当でやっているような小さいところも多いですが、なかなかと言えるのではないでしょうか。しかし、市民運動をしている人の話を聞くと、「行政がやらないから我々がやっている」と言います。行政からお金をもらえばいいではないかということですが、それでは紐付きになるから出来ないと。これは妙な話です。村山内閣、小渕内閣で成し遂げたことをみれば、着実に進んできたのかなと思います。ところが最近はまたおかしくなったのですね。

国として行政として、「和解、反省、平和」という理念を出していただく方が、本当は市民運動も活動がやりやすいわけです。(音声の途切れ)それをやると補償問題が蒸し返されるということなのか、財界に歴史の感覚がないのか、もう少しお伺いしたいです。

 

谷野:残念ながら昨日で辞めた内閣の中枢におられる人達は、行政がそういう面で積極的になれないという人達が少なくなかった。そういう内閣に忖度を重ねる役所も残念です。逆質問ですが、ユネスコで軍艦島の登録が問題になりましたよね。当時乱暴な所作があったということで、そのことについて説明のパネルを造るという条件で認められたのに、実行されてないのだそうです。

 

外村:センター自体は造られたのですが、展示のうえでは、日本人も朝鮮人も仲良く働いていたとなっているようですね。

 

谷野:確かあれは、2015年に韓国との間で、案文を合意したうえで認められたのでしょう?

 

外村:あれはユネスコ大使が強制的な労働があったと説明すると発言したという話ですね。

 

谷野:現地にそういうパネルを作るということで認められたのではないですか。

 

外村:センターを造ったのは、先ほど話に出た加藤六月さんの娘、康子さんなのです。韓国が過大な宣伝をしていると思って、それに対する反論をしなければいけないという気持ちが先に出ているようですね。

 

浅野:康子さんは、ハーバードのビジネススクールも出て、1980年代末ぐらいから、日本で閉鎖した炭鉱を博物館として再生させ、村おこしをする活動の全国ネットワーク化を、ドイツをモデルに取り組まれてきた方です。岩手県や九州の炭鉱です。私自身も、そのことを踏まえつつも、当時の日本社会全体の雰囲気の中で、差別がなかったということはあり得ないことは公文書からわかるということと、炭鉱だけが特殊な世界で例外であったのかもしれないということを、朝日新聞のインタビューで話したことがあります。

 

小林:日本大学法学部で教えております。朝鮮半島を専門にしております。谷野大使には、お目にかかりたいと思っていました。今日はとても嬉しく思っております。二つ質問をさせていただきたいと思います。まず、日韓関係についてです。82年から83年にかけての教科書問題の際、中曽根元総理が非常に積極的だったというお話がありました。韓国側の外交記録を見ると、当時の橋本恕文化局長(後の中国大使)や森喜朗元総理が、問題の解決にむけて活発に動いていたことがわかり、彼らの動きをかなり肯定的に捉えていたようです。また、韓国側の記録からは、宮沢喜一元総理に対する高い評価も見受けられました。韓国側は、こうした政治家や官僚たちが歴史問題を乗り越え、日韓関係をなんとかしようという彼らの気持ちを理解し、その努力を肯定的に捉えていたわけですよね。さきほど、日本側の政治家や官僚たちが、今、韓国に対する気持ちというものを失っていってしまったのではないか、といったお話をされていました。かつてあったはずの気持ちは、なぜ、今、失われてしまったのでしょうか。その理由とともに、こうした気持ちを韓国側に伝えていく回路も非常に制限されていってしまっているようにおもうのですが、それらの理由についてお伺いできればと思います。

二つ目の質問は、尖閣関連についてです。尖閣諸島について、しばしば「棚上げ」の話が取り沙汰され、日中の認識の差を指摘する声などもありますが、中国課長として中国側との交渉に関わった経験から、実際のところ、どうだったのかについて、ご存じのことがございましたら、お教えいただきたく存じます。また、あわせて、尖閣をめぐるその後の展開についても、ご意見をいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

 

谷野:尖閣ですが、72年の正常化の時に、日中関係に色々問題があるなかで、「今この話をすることはやめておきましょう」ということになったのです。会談の最後の段階で、予定になかったので事務方も驚いたのですが、田中角栄総理が一言、尖閣の問題に触れたのです。党内で、この問題を提起しないで東京に帰ってくるのは許さん、という空気があったのでしょうね。だからアリバイ作りに田中総理がおっしゃった。周恩来総理はこれに対し、「いやいや今回はその話は止めておきましょう」と言って、きわめて短時間で終わったらしいです。いわゆる「棚上げ」というのは、私の理解では、「この問題は、当面議論しない」ということです。日本政府としては、長きにわたって、日本は有効にあそこを支配していたわけですから、それで良い。園田直外相も「現状では日本が有効に支配しており、中国側もそれに対し何も言ってこないのだから、当方から事を荒立てず、そっとしておけばいいではないか」と言っておられました。ずっとそうしていたわけですが、その後、石原慎太郎さんが灯台を造れとか、港を整備せよとか、寝た子を起こすようなことを言い出しました。いずれにせよ日本は尖閣の領有権についての主張について、その主張を変えて、棚の上に置いたということではない。そういう風に理解しています。ただ中国はそうは理解していない。あたかも日本が領有権の主張自体を取り下げて棚の上に置いたと言わんばかり。この問題に火をつけたのは、やはり石原さんが都知事をしていた時、東京都が島を買いとると言い出したことです。あの島は東京都とは何ら関係ないのに。それに対して当時の民主党政権が日中関係を思い、そうはさせじと、政府が買い取ったということだった。石原さんに島を買い取られると、何をされるかわからないから、政府が買い取ったうえで現状のまま置いておくということだったのではないでしょうか。「国有化」という言葉がやたらと新聞で踊ったので、あたかも人様のものを日本政府が奪い取って国有化したととられたのかもしれません。実体は、日本の一個人の所有だったものを国が買い取った。言うなれば、日本の中で所有権者が変わっただけの話。だから、例えば、往時のイランにある英国の石油会社をイランが一方的に「国有化」したのは全く違う話。しかし、あの時、中国は黙っていなかった。同時並行的に漁船が出てきて、日本に拿捕されたといったこともありましたね。

次に、日本と韓国や中国との関係を思う政治家がどんどん少なくなってしまったことについて。今の日韓議連は、徴用工の問題について、内々、努力はされているのでしょうが、やはり前面に大きな壁がある。そんな中、日本では、韓国について「もういいかげんにしてくれ」という気持ちがある。徴用工の問題は、文在寅さんが仕えた盧武鉉大統領の時代は、「これは今や韓国内部の問題だ。必要があれば予算の手当も韓国政府でやる」ということだったのですね。ところが韓国の最高裁がひっくり返して、「賠償」をよこせと。これに対して文在寅大統領も「司法の独立」を言うだけで、解決に向けて何ら手を打とうとしているようには見えない。日本の事務方も「もういいかげんにしてほしい」ということですね。外務省の後輩連中も、今度は、韓国側が解決策を考えよと。私たちが一生懸命に取り組んだ慰安婦の時と状況は違うと思いますね。わかりますよ、後輩たちの気持ちも。政権が変わると、それまでのことをひっくり返すのですから。

 

浅野:谷野さんのアジア局長・外政審議室時代は、アイデアを出せば取り上げてくれる政治家も多かったのですか?

 

谷野:そうそう。もっと自由闊達だったというか、橋本龍太郎さんも含めて政治家の人達とよく議論をしました。聞く耳を持っておられました。今の後輩たちには同情します。橋龍先生といえば、こんなことを覚えています。橋龍さんは、時々人前で、「ここにいるタニノという人は、気に食わないことを言うと、相手を殴るくせがある。皆さんも気をつけたらいいよ」と。このおとなしい私がそんなことをするはずがなかったし、橋龍先生に対しても、手を横に振りながら、「いや、いや、センセイ、それは違うと思いますよ」といった程度のやり取りはありました。橋龍さん一流の冗談です。その後、北京にみえた時も、宴席で胡錦濤副主席に「副主席、今度の大使は気に入らないことを言うと、相手を殴るので、気をつけられよ」と(笑)。二、三人離れたところにいたのですが、この時も「いや、いや」と手を横にふったら、「ほら、あんな風にね」と(笑)。橋龍さん、気に入らないと何日も口をきいてくれなかったり、難しい人でしたが、今思えば、懐かしい人でもあります。内閣人事局は良くないと思いますね。総理、官房長官が人事について意見を言うのは、外務省について言えば次官、外務省外務審議官、そして米国や中国のような大国に赴く大使人事ぐらいまででしょうか。しかし今や、もっと下のレベルの人事にさえ手をつっこんでくる。例えば、今の内閣では某総領事が酒席で官邸批判をしたというだけでクビを切られるということがありました。そんなことが、どうどうと行われています。日本の役人村について「忖度」ということがよく言われます。もっとも中国の外務省は120パーセントの忖度ですね。

 

浅野:外務省がよく呼ぶ学者というのもいますよね。

 

谷野:私が総理秘書官としてお仕えしていた頃、総理のところへ外務省(事務次官)から人事について決裁をもらいに来ていたのは、外務省の次官と、サミットで総理の代表を務める二人の外務審議官のポスト、それに在外の10数か国の主要な大使の人事くらいです。局長を次はどうするかなど、いちいち総理に相談になど来ていませんでした。個々の細かい政策についても、昔、官房副長官だった人が言っていましたよ。「いちいちの個別の政策については、先ずは各省で十分議論してもらいたい。官邸に持ってくるのはよほどのことでなければならない。官邸は暇なのが一番いい」と。町村信孝官房長官の時代も、何でもかんでも官邸に持ってくるけれど、怪しからんとよく撥ね退けていました。もっと各省の間で、ケンケンガクガクの議論に尽くせと。今はむしろ、先ずは持っていかないと怒られるのではないですか。勿論、度が過ぎると行政の縦割りの状況になって、スピード感が落ちることになる。難しいですね。この辺のさじ加減は。もっと各省庁の垣根を超えて、局長レベルも含めて、人事交流をやったら良いという気は当時もしていました。いずれにせよ、政治の世界、役所の世界、国会、司法、うまくバランスをとって、それぞれが活気ある状況がつくられるのが理想ですよね。

 

浅野:学者の方のアイデアとして、大沼先生とか自ら運動されて政策立案に入っていたかと思うのですが。

 

谷野:最後はやっぱり政治が決めるのです。

 

浅野:和解学をつくろうと今頑張っているのですが、その学問的成果を政策に反映させるためには、どうすることが必要だと思いますか。世論を動かすことが大切と思うのですが。

 

谷野:皆さんも世の中に聞こえる形でどんどん意見を言っていただきたいし、色々な審議会に学者の方が入るのは悪いことではないと思います。象牙の塔に立てこもり、孤高を誇るのはよくない。

 

浅野:歴史行動研究の失敗というテーマで、劉先生を中心に研究をしていただいています。学者も国民の感情を受けてパフォーマンスをしてしまい、対話になりきれなかったということが、かつてありました。国民感情を受けて議論するのはいいのですが、どうすれば両国の国民を説得できるか、そのようなことができる場所やプランが必要だと思っています。

 

谷野:テレビの影響は大きいです。でも本当の政治ジャーナリストは少なくなりましたね。テレビもこれからの日本をどうしたいか、そのためにはどうしたらいいか、というよりもつまらぬ政治談議の話ばかりです。昔は、外務省で競争が激しかったポストに専門調査員のポストがありました。中国大使館にも専門調査員というポストがありました。東大の高原明生先生もそうでしたが、そうそうたる人が行っていました。衛藤瀋吉さん、岡部達味さん、中嶋嶺雄さんなど。外務省によれば、今、専門調査員のなり手がいないのだそうですよ。

これからはサイバーセキュリティなど、それぞれの知見を持った人材を、企業からでも、学者からでも、どんどん来てもらってオールジャパンでやっていかないとね。外務省も純血主義ではダメですよね。

<休息>

谷野:日韓は十何年の交渉を経たあと、小異を残しながらも大同に就き、より良い未来へいこうということで手を握ったわけですからね。当時の回想録を読みますと、李承晩大統領の時から、36年の植民地支配について「賠償」を取るという考えはなかったようなのです。韓国政府は一貫として、賠償請求は韓国側からは話題にしていない。あくまでもサンフランシスコ条約に基づく「請求権」の問題として処理するという方針。その前提で「8項目の請求権」が韓国側からでてくる。そのうちの第何番目かに徴用工の未払い賃金の請求がある。もっとも長い交渉のなかで、そもそもあれは不法な植民地支配だった。だから日本は、1910年に至る間までの条約は無効だと認めよという議論はありました。ところが文在寅政権になって、1965年の決着をひっくり返してきたのです。1965年協定は、お互いに妥協して、その結果、確かに玉虫色の決着ではあるのだけれど、玉虫色の決着で手を握って、より良い未来を目指そうと合意したわけですからね。その原点をひっくり返されるのは、困ったものですよ。

 

浅野:80年代に韓国人の原爆被害者、サハリン残留の韓国人…モラルの問題として自主的に対応するというアプローチをとっていたかと思うのですが。

 

谷野:サハリンは特に五十嵐広三さんとか、学者では大沼保昭さんが熱心でした。在日の人たちの原爆被害の件もそうではなかったかな。「政治」が動くときがあるのですよ。広島の在日の人たちの被爆者の慰霊碑も、公園に入れるのは大変でした。韓国の今の状況で、賠償問題について、かくなる上は、国際司法裁判所に行こうという考えも日本の一部にあるようですが、国際司法裁判所で決着をつけてもらうというのは難しいでしょうね。韓国が応じることはないでしょう。私の韓国の友人もいっぱいいまして、私と同じ年の人たちで外交部や軍のOB。この「戦友」たちとは、「我々は、お互いに国内の難しい状況を背負いながら、それを飲み込んで、70点ぐらいで妥協してやったものだ。それを今の文在寅は全部ひっくり返そうとしている」と怒っています。

 

浅野:日韓併合条約についてですが、不法だったとは認めることはできないというのが、今の日本政府の立場です。なぜ認めることは出来ないのでしょうか。

 

谷野:差し上げたペーパーに書いてある松本清張の小品『統監 伊藤博文』[『松本清張全集第38巻皿倉学説短編4』(文藝春秋、1974年)]を読んでください。1905年の保護条約など、しっかり史実に基づいて書かれた佳作です。他方、日本政府が1910年に至る諸条約を「不法」だったということを言うと、そこから派生する色々なことがあるでしょう。それを政府は恐れたのだと思います。その間のやりとりをした当時の国会での議事録も持っていますが、社会党は「不法」だと言う。しかし、「不法」だというと、全部ひっくり返りますよ。渡辺美智雄外相がさすがに政治家で、上手く間をとって治めていました。攻める方は、人権弁護士で社会党の本岡昭次さん。1905年の時は、朝鮮側の大臣たちは抵抗するは、卒倒するは、国王は奥の方に逃げ込んでハンコを押さない。大変でした。その時の生々しい状況(その時、現場に居た日本の駐漢城(今のソウル)公使らが書いたもの)も一部の先生に差し上げました。これは本当にすごい状況。でも嘘じゃない。その場にいた人たちの目撃談ですから。

 

宮本:北朝鮮との交渉に関して質問させていただきます。北朝鮮の論理として条約は全部無効とお伺いしましたが、まず賠償を決めるという理屈は何だったのでしょうか。韓国側は交戦をしていないから、1965年の条約では、経済援助という形をとったわけですよね。それから、北朝鮮は朝鮮半島を代表する国として認めろという理屈は出してきたでしょうか。

 

谷野:北朝鮮は、日本と「戦争をして勝った」という立場でした。戦争に勝った側に「賠償」をよこせという理屈です。私は北京で3回ほど北朝鮮と交渉しました。私のオーラルヒストリーにそのくだりはあると思います。岩波から出した本[『外交証言録 アジア外交―回顧と考察』(谷野作太郎著、岩波書店、2015年)]にありますので、ご関心あれば読んでください。

私は役所を辞めてから東京でのセミナーなどで北朝鮮の人達に会う機会がありました。同じことを言うわけです。また「あなた方は1965年、日韓正常化の折、南の政権を朝鮮半島の唯一合法の政権として認めた」とも。そうじゃないんです。「あの時の基本条約をちゃんと読んでごらんなさい。難しい書き方になっているけれど、北朝鮮と日本の将来の関係は、真っ白な形でとってあるのだ」と。いずれにせよ、1965年の決着で、南の政権を全半島の代表としたなどと乱暴な書き方はしていない。このように話したものですが、事実、そうなのですよね。だからその後、金丸訪朝の時、日本と北朝鮮との国交正常化の道にいこうと先方が言い出した時に、南との関係を切れなどという話はひと言もなかったので、びっくりしたわけです。結局、その後、この日朝交渉は上手くいかなかったわけですが。北は、ひと頃までは「北朝鮮と国交正常化したいなら、韓国との関係を断ち切れ」と言っていました。これは、出来ません。それにヨーロッパで韓国に大使館を置きながら北朝鮮にも大使館を置いている国は多いのですよね。むしろ置いてないのは、アメリカ、日本など、僅かです。「インド等の国々は、平壌に大使館がありながら、ソウルにも大使館があるではないですか。なぜ日本はダメなのか」と聞きますと、「日本とアメリカは違う。朝鮮半島で罪を犯した」と北の外交官はひと頃までそう言っていました。

 

浅野:台湾との関係を日本が精算して、中国大陸にした時に、台湾の大使館は交流協会になったではないですか。北もそういう要求をするならば、南の日本大使館を格下げして、日韓交流協会にしろというのが、理論的に正しい北の具体的主張であるべきと思うのですが。

 

谷野:要するに南との関係を清算しろということですね。ただね、その後、北はこの立場を大きく変えたわけです。私は何度も北の人たちから北朝鮮に来ないかと誘われましたが、結局、行きませんでした。その後、例のKEDOなんかが出来てね。外務省の後輩はだいたい北京を通って北朝鮮に行くわけですよ。北朝鮮の人たちの多くは、本当に純粋らしいですね。後輩たちからよくその話を聞かされた。僕がやったのは予備交渉だけでした。東京での本交渉の時に、当時の担当課長が気を利かせて、夕食会の折、アルバイトのバンドを呼び、密かにカラオケのようなことをやったのです。何が起こったかというと、先方は7、8人いたのですが、「夕焼け小焼けの赤とんぼ」を歌わせてくれと。韓国の場合はあの頃、そのような席で、日本の歌などとんでもない話だった。びっくりしました。でも美しい合唱でね。北朝鮮に行った人たちは、このように現地の人たちと触れ合っていました。

 

宮本:韓国と精算しろという話は、先方は譲歩しなかったということですか。

 

谷野:その問題についての交渉をしたわけではないし、若干のやり取りをしただけで。私は当時、カンボジア和平などで忙しかったので、その後の本会談については、報告を受け、相談にのるだけで、直接タッチしていません。ただ少なくても以前は、北朝鮮と関係正常化する場合は、南との関係を清算しろという話でした。しかし例の金丸訪朝は、北朝鮮と日本は関係正常化に向けて交渉を始めようというかたわら、南との関係を断てという話は全くなかった。以上の話は、私の「オーラルヒストリー」[『外交証言録 アジア外交―回顧と考察』(谷野作太郎著、岩波書店、2015年)]で述べました。

 

宮本:北朝鮮にとっての過去の清算には、韓国との関係を切ることが入るということなのですよね。

 

谷野:しかし、その後の話では、北朝鮮との正常化においてソウルの大使館をクローズしろという要求はなかったのです。それほど北朝鮮の経済が追い詰められていたのだと言われていますよね。

 

浅野:金丸訪朝は90年の9月だったと思いますが、92年に韓国と中国の国交正常化があって、中国が南北を認めてしまったので、それ以降はだいぶ変わったのではないでしょうか。

 

谷野:そうでしょうね。これをご縁に色々教えてください。今日はありがとうございました。

 


関連する参考サイトとして以下があります。

1.「村山談話」を書いた元官僚・谷野作太郎氏、その誕生秘話と意義を明かす 『週刊ダイヤモンドオンライン』