和解学の創成

  • 1872年東京 日本橋

  • 1933年東京 日本橋

  • 1946年東京 日本橋

  • 2017年東京 日本橋

  • 1872年8月〜10月北京 前門

  • 現在北京 前門

  • 1949年前後北京 前門

  • 1930年代北京 前門

  • 1895年台北 衡陽路

  • 1930年代台北 衡陽路

  • 1960年代台北 衡陽路

  • 現在台北 衡陽路

  • 1904年ソウル 南大門

  • 2006年ソウル 南大門

  • 1950年ソウル 南大門

  • 1940年代初ソウル 南大門

国立公文書館公文書管理分析官の槌谷裕司様より「沖縄の歴史認識と和解」と題したエッセイが投稿されました。力のバランスや経済的な相互依存と、国民同士の感情の融和という問題はどのような関係にあるのかが、米中の対立が激化する中に置かれた沖縄の人々の発したメッセージを振り返って問われる必要があるのではないでしょうか。

沖縄の歴史認識と和解
国立公文書館(公文書管理分析官)  槌谷 裕司

1971(昭和46)年11月のものと考えられる、佐藤栄作首相屋良朝苗琉球政府主席の会見写真。左端は戦前台湾において屋良が台北第二師範学校の教師時代に教えた弟子の一人で、返還後に初代沖縄開発庁長官となる自民党財政族の山中貞則。屋良は台湾引揚後に沖縄県教職員組合を地盤に復帰運動を展開し、琉球政府最初の公選の際に行政主席に立候補し、1968年12月に沖縄自由民主党の西銘順治を破って当選し、日本復帰を主導した(出典:読谷村立図書館所蔵・屋良朝苗アルバムから)。(このエッセイ末尾に解説、関連日記あり)

 

明治150年、戦後75年を迎えた今日であるが、沖縄には、本土ではみられない共通の記憶・歴史認識がある。

琉球処分という言葉を聞いたことがあるだろうか。

沖縄では、巷間、1609年 (慶長14年)の薩摩による琉球侵攻を「琉球処分」と言うこともあるが、もともとは、日本が近代国家に生まれ変わる中で、明治政府が琉球を日本国に包摂(併合)していった一連の措置を自らが公文書で「琉球処分」と呼んでいたのだ。しかし、この言葉は、現在では、民意に反する本土側の対応などがあった場合、かつての負の記憶を想い起こさせる表現として、むしろ沖縄の人々が用いることが多く、筆者も沖縄在勤中、実際に何度か耳にしたことがある。

国立公文書館のデジタル・アーカイブには、これらの措置の過程を記録した琉球処分提綱」と題する太政官作成の公文書が公開・保存されており、ネットを通じて誰もが自由に閲覧可能だ。

「琉球処分」とは何か

良く知られているように、1871 (明治4) 年、本土においては廃藩置県が行われ、琉球は鹿児島県が管轄するところとなった。明治政府は、その翌年、琉球国王を特別に「琉球藩王」と呼んで冊封し、旧諸侯と同格の「華族」に列して皇室と君臣関係を結んだ。その上で、清国への臣礼を謝絶させ、琉球藩の日支両属を廃することを求めたのだ。この動きを琉球サイドから知らされた清国は、日本政府に対し照会・抗議を行い、日清間で外交上の厳しいやり取りが行われることとなるが、79年(明治12年)に至り、明治政府は、琉球藩・藩王を廃止し、「沖縄県」の設置を断行する。「提綱」には、内務省に対する「処分」の実施を促す勅諭書が残されており、記録上は、当時の政府があくまでも内政問題として取り扱おうとしたことが窺える。

琉球側は、「従前どおり日清両国を父母として仕えたい」として、再三にわたり嘆願する。また、陸軍の鎮台歩兵分遣問題についても「今日まで兵備をせず、礼儀と口舌のみを以て対外関係を治めてきた」として婉曲に拒んだのだ。

しかし、明治政府は、

①「皇政維新萬機親裁」の時勢において他国のけん制を受けることは国権を損なうこと

②琉球人の遭難に起因する1874年の台湾出兵を清国も義挙と認めていること

③琉球は「藩屏」の任を負う地方の官として位置づけられること

などを説諭し、この嘆願を顧みることはなかった。

東アジアにおいては、それまで「華夷思想」に基づく伝統的な国際秩序が支配的であったが、欧米列強の圧力と工業化・グローバル化の進展に伴って、必ずしもこれが正義でなくなり、「力」と「利益」の体系に基づく新たな国際秩序が形成されつつあった。こうした中で、明治日本が、欧米の帝国主義・植民地主義の脅威から自国の独立を守る安全保障策の一環として、民族統一というよりは、「国家統一・職制の刷新」を中央政府主導で急ごうとする姿を看て取ることができる。

しかし、この「琉球処分」は、沖縄の人々に単に負の歴史としてのみ記憶されたわけではない。沖縄出身の民俗学者・伊波普猷のように、「実に迷児を父母の膝下に連れて帰つた様なもの」と述べ、薩摩支配により密貿易の機関とされた琉球を解放し、元来「自主の民」であった琉球人を蘇生させたとして肯定的に受け止める言説もみられるからだ。

伊波は、日本人及びその一支族としての琉球人の民族的特徴は統一性が強いことにあるとし、「マレイ人やアイヌがピープルとして存在している間に、彼等(琉球人)はネーションとして発達した。」と評価した。

その一方で伊波は、国家社会を構成する琉球人の資質にも目を向け、薩摩支配時代に抑圧され、「独立自営の精神」を失ったその生き方を海の生物の「フジツボ」に例えて批判するとともに、日本帝国という新制度の下での精神の解放を鼓舞した。

ちなみに、置県後の沖縄では、1899(明治32)年ごろから、謝花昇らによる民権運動の動きが高まった。本土においては、既に89(明治22)年に国民に参政権が付与されていたが、沖縄(宮古・八重山地域を除く)では、1912(明治45)年にようやく参政権が付与された。沖縄全域が対象となるには20(大正9)年まで待たねばならなかったが、いずれにせよ琉球人の国政参加・日本人化は進んだ。

米国統治と「琉球処分」

沖縄を悲惨な戦禍に巻き込んだ太平洋戦争は1945(昭和20)年に終結したが、51(昭和26)年のサンフランシスコ講和体制においても米軍部が主導する沖縄支配は継続した。東西冷戦が進む中、米国民政府は、中国全土とシベリアを掌握できる位置にある沖縄の極めて高い戦略的価値に改めて着目し、「太平洋のキー・ストーン(要石)」と呼んだ。そして、「共産主義侵略に対する相互防衛」の拠点とするため、当初、日本からの「民族解放」と「琉球化」を支援する分断統治の政策をとったとされる。その思想的背景には、伊波の論説を参考にしながらも、沖縄人を日本人と異なるマイノリティ集団とみなし、「日琉異祖」を唱えた人類学者・アルフレッド・トッザーらによる調査報告があった。

しかし、現実の米国の施政は、住民の福祉よりも軍事的な利益を著しく優先するものであり、沖縄人の幻滅を招いた。沖縄経済は、沖縄人の「自立経済」願望とは裏腹に、生活物資の大半を輸入に頼るが故に生じる貿易収支の大幅な赤字を基地の建設や施設運営等に関連する産業の収入で埋め合わせるミクロネシア型の「基地経済化」が進んだ。さらに、米軍が強制収容した軍用地の実質買い上げ(基地の恒久化)の方針が示されると、これに反発して「島ぐるみ土地闘争」が起こった例に見られるように、かえって本土日本人との精神的紐帯やナショナリズムなどを覚醒させるきっかけとなった。

それまで連合国軍の占領下にあった日本本土は、講和条約の発効により晴れて独立を果たし、国際社会に復帰した。これに対し、沖縄や奄美は、日本の施政権から切り離されたまま、日本人でありながら日本国憲法が適用されず、参政権もなく、過重な基地負担の下に暮らさなければならなかった。日米両政府によるこうした処置は、明治期の「琉球処分」になぞらえ、やはり負の歴史としてその後も記憶されていくことになった。

復帰運動と「琉球処分」論議

こうした中で、異民族支配からの脱却を求める初期の「祖国復帰」運動が盛んになった。この運動は、本土にも日琉の情緒的紐帯を想い起こさせるとともに、特に沖縄においては、伊波普猷の「日琉同祖論」の影響も少なからずあって、政治的党派やイデオロギーを超えて比較的容易に受け入れられたと考えられる。

そもそも沖縄人の郷土愛に基づく共同体意識は、極めて個性的で独自性がある。それは、沖縄の地方割拠性と経済的開放性、さらにこうした事情に由来するものであると考えられるが、自らを内地人と区別して日常的に「ウチナ―ンチュ」と呼称することなどにも象徴される。

ベネディクト・アンダーソンは、「ネーション」(国民)について「イメージとして心に描かれた想像の政治的共同体である。」「国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民は、常に水平的な深い同士愛として心に思い描かれるからである。」とした。こうした同士愛をひとつの共同体意識にまで育てる上で、近代社会における新聞・出版などマスメディアの果たす役割は特に大きいといわれるが、いずれにせよ、こうした沖縄特有の共同体意識を持つ人々を、ここでは「沖縄ネーション」と表現してみよう。

この「沖縄ネーション」の延長上には、明治期以降獲得してきた日本人としての郷土愛に基づく共同体意識・「日本ネーション」がある。戦後沖縄において盛んになった「祖国復帰」のための運動は、米国の植民地を彷彿とさせる政治的・経済的支配から「沖縄ネーション」を切り離し、「日本ネーション」に再統合を図るものとして受け止められた。むしろ、沖縄側からみれば、それにより祖国日本の真の独立が守られるのだという自負すらあった。

沖縄の施政権返還が日米間で合意され、日米沖縄返還協定の締結(1971年)が迫ると、本土革新勢力との結びつきが強まったこともあって、基地撤去や安保廃棄、日米協定のやり直しによる完全復帰を求める大衆運動が盛んになった。

他方、琉球政府(屋良朝苗行政主席)の下で復帰対策を進めるために置かれた「復帰対策県民会議」においても、こうした大衆運動とは一線を画しつつも、本土政府ペースによる県民不在の復帰対策が県民の利益を損ないかねないとして「第三の琉球処分」を危惧する論議がなされたのである。

本土復帰に当たり、沖縄側には、歴史的に独自の経済社会圏域として発展してきた地域特性の尊重や県民が不満・不安を感じる沖縄問題への格別の配慮、そして平和憲法に定められた地方自治を求める意向が強くあった。また、米国施政の下で長い年月をかけて一国並みに権限を拡充し、教育委員公選制のように進んだ制度を取り入れ、定着させてきたことを誇る思いもあった。これに対し、日本政府は、「本土・沖縄一体化」の閣議方針の下に格差是正を急ぎ、ややもすると全国制度を一律に適用しようとする傾向があった。こうした対応は、沖縄に対する中央集権的な干渉と映り、県民会議の多くの委員が、「保革」の別なく日本国民としての権利付与が未熟であった明治維新期の「琉球処分」になぞらえる感覚を持ったのである。

沖縄問題の特質

 沖縄問題は、沖縄特有の歴史認識と深い関係がある。

日本本土の周辺地域である沖縄は、アジアの玄関口に位置する歴史、文化、地理的に特色ある地域である。特に大航海時代には国際交流・交易拠点として栄えたことから、歴史的に「課題先進地域」となる宿命があった。先にみてきたように、明治期に入る前の琉球王国は、こうした地の利を生かし、清国を中心とする「華夷秩序」と徳川幕藩体制という二つの「価値体系」=国際秩序の狭間でバランスを保ち、「力」の体系によらない平和を維持していた。しかしながら、明治維新を契機として、日本帝国が欧化や列強との協調という新たな「価値体系」=国際秩序を構築する中で、これへの帰属を余儀なくされていった。

戦後になって、サンフランシスコ講和体制の下で沖縄の施政権が本土から分離された後、世界は東西冷戦を経て、米・中・ソ三国間の競争と共存、対立と対話の関係を軸として動く時代へと移行していく。それから現在に至るまで、日本にとって尊重すべき「価値体系」=国際秩序は、一貫して「自由主義諸国との協調」、アジア太平洋地域の安定と平和に基づく「利益」の体系であり、その拠り所となる「力」の体系は、米国の軍事プレゼンスを前提としたものであった。

佐藤栄作総理大臣のイニシアチブによって、1969(昭和44)年の日米首脳会談において、ようやく沖縄の本土復帰を合意すると、多極化する国際情勢をも踏まえ、沖縄では「理想の復帰」が語られるようになる。「沖縄ネーション」の欲求は、即時無条件全面返還からアジアの緊張緩和に資する沖縄の軍事機能の再編に至るまで多様なものがみられ、71 (昭和46) 年の沖縄国会は、60年安保闘争に匹敵するような社会的混乱を来すことが危ぶまれた。

しかしながら、琉球政府において復帰対策の先頭に立った屋良は、県政の自主性を一日も早く取り戻すねらいから、あくまで超党派的・リアリズムの立場を維持しつつ、本土政府に協調して復帰最優先で取り組んだのである。焦点の一つとなった安保問題について屋良は、県民福祉を優先し、基地を容認しない立場から反対したものの、「安保廃棄、一切の基地撤去、全軍用地返還」といった運動団体の立場とは一線を画した。

72(昭和47)年の本土復帰により、結果として、沖縄には過重な基地負担の問題などを積み残すことになったのだが、しかし、屋良・佐藤の日流両政府間対話や国会論議などを通じて、「非核」、「専守防衛」、「経済大国」といった「日本ネーション」全体のアイデンティティに「沖縄ネーション」のアイデンティティが大きな影響を及ぼしたとの見方は可能であろう。

日本の境界に位置する海洋都市・沖縄は、近代国家を形成するとき、及び戦後の分離地域の施政権返還のとき、いずれも「国家(国民)統合と国の安全保障の負荷」という重い課題めぐり選択を迫られた訳であるが、それはまた、アジアの境界に位置する海洋国家・日本の自画像をみるようでもある。それは、沖縄問題が「沖縄ネーション」の問題であると同時に、その延長上にある「日本ネーション」が抱える党派やイデオロギーを超えた「日本人と国家の成り立ち」そのものに関わる問題であるからにほかならない。

 

和解学のアプローチから

残念なことに沖縄と本土の間には、今日に至るまで、特に政治空間において深い溝があると指摘される。本稿では、これまで主に沖縄における被害意識としての「琉球処分」の歴史認識と沖縄問題の趨勢をみてきたが、こうした歴史認識を謙虚に受け継ぎ、未来へと引き渡すプロセスの在り方を問う「和解学」の視点から、この問題を改めて眺めることは有益である。

まず、「和解学」のアプローチについて、浅野豊美教授は、「ネーションの創造を可能としている記憶や正義・感情の社会的な機能への共通認識と、その共通認識の上に三原則(注)に基づいた実際の歴史的な事実への議論がある種の均衡を保ちつつ行われ、ネーション相互の関係の基礎となる新しい道徳・礼儀・規範が生み出される議論へと昇華していくことが必要である」と提唱する。

(注)和解三原則

① 正義が複数存在することを前提とした対話が必要であること

② 正義と結びついた他者の感情に自己の感情を近づけることを意識して説得すること

③ 他者に向けられた尊敬の態度を集団としての態度へと転換していく道を見つけること

このアプローチにあてはめれば、まず、屋良と佐藤という二人の指導者が行った復帰のあり方をめぐる日琉間の「対話」は、自国及びアジアの安全保障、地方自治の確立、平和的生存権の保障といった複数の正義をめぐるものであった。当時の保革伯仲の政治構造の下、反戦平和イデオロギーや経済開発のあり方論などにより民意が「分断」されかねない事態も危惧されたが、屋良は、超党派性を発揮して「沖縄ネーション」の共感と高い支持を得つつ、「日本ネーション」へと統合していく道を見出した。さらに、先に見たように、その過程で、「非核」、「専守防衛」、「経済大国」といった「日本ネーション」全体の新たな価値体系を創出(昇華)したものと評価することができる。こうしてみると、沖縄の本土復帰のプロセスは、「和解」の一つのモデルといえよう。

本土復帰から四半世紀を経て、沖縄問題は更に進化した。歴史認識は、国際秩序や国際情勢の問題とも不可分に結びついているからだ。

その端緒となったのが、1995(平成7)年9月の米軍人による沖縄少女暴行事件である。ポスト冷戦という世界情勢の変化の中で、依然として過重な基地負担を抱える沖縄とこれに安住する本土間の意識の溝・沖縄問題が改めて顕在化したのだ。

「我が国が、戦後順調に復興・発展を遂げていく過程で、その前提となる、我が国とアジアの、均衡と平和の要石としての役割を果たしてこられた沖縄の方々の、歴史的な負担とそのお気持ちに対し、深く理解しようとする努力が必ずしも十分でなかったことは、国民全体として、率直に認め、反省すべきだと私は思います。」

これは、事件の翌年、復帰から四半世紀を迎える96(平成8)年9月17日に、大田昌秀知事に招かれて沖縄を訪問した橋本龍太郎総理大臣が行ったスピーチの一節である。新たなステージに入った沖縄問題の特質を的確に捉えたこの総理の肉声は、沖縄県民のみならず、日本国民全体の心にも十分に届いたにちがいない。

橋本は、このとき、日米安保体制が日本の安全とアジア太平洋地域の平和と安定、繁栄のために不可欠であるとする基本認識を堅持しつつ、基地負担を国民全体で分かち合っていく観点から、米軍基地の整理・統合・縮小に率先して取り組んだ。さらに、沖縄の経済格差などを念頭において、その自立発展を後押しする有効な振興策を政府を挙げて親身に検討する姿勢を内外に示した。

大田は、橋本との対話を受けて、「21世紀沖縄のグランドデザイン・国際都市形成構想」を打ち出したのであるが、これは、沖縄の歴史的地理的優位性を生かして、アジア・太平洋諸国との提携・協力の下で広域経済圏を形成し、自立的な発展を図ろうとする新機軸であった。そして、それは復帰前の屋良とも交流のあった下河辺淳の「総合安全保障」の考え方をベースにしたものといわれている。本土側も沖縄の地政学的位置付けに理解を示し、梶山官房長官は、国会などで沖縄、台湾、福建省に広がる「蓬莱経済圏構想」を提唱した。

*              *

あれから、さらに四半世紀が経過しようとしている。

第一次大戦以降、国際関係の基調は、「力」から「正義」にシフトしてきたといわれる。しかし、昨今の世界における覇権をめぐる争いをみていると、宇宙、サイバー、海洋、ハイテク、貿易、コロナ(感染症)といったあらゆる空間において、これまでとは異なったかたちの争いや対立が生じている。次なる世代における国際社会では、どのような正義が世界秩序となるのであろうか。そのとき、沖縄問題は、また、新たなステージに立つのであろうか。

特に、アジアにおいて、今後、日米中の「力」と「利益」の関係が大きく変容していくことが見込まれる中で、かつて「沖縄ネーション」が構想し、本土政府もこれに歩み寄った沖縄の自立発展の姿・「国際都市」の形成は、今後どのように展開していくことができるのか。それとも、時代は、反和解へと向かうのだろうか。沖縄の歴史認識、「日本ネーション」の有り様、和解学の視点からも目が離せない。

<冒頭の写真解説>

1971(昭和46)年11月18日、東京永田町の首相官邸において、歴代2位の長期政権でノーベル平和賞を受賞することになる佐藤栄作総理を、山中貞則総務長官(左端)の立ち合いのもとに、屋良朝苗琉球政府行政主席が訪問した際の写真。吉田元総理が鉄道省の役人から保守系の政治家へと転身せしめた佐藤総理と、革新系の屋良との沖縄返還に向けた協調路線の存在をこの写真は象徴している。超党派的な連携のもとで、沖縄返還は進められた。
なお、初の公選による琉球政府行政主席は、1972515日の沖縄県への復帰後は、復帰特別措置法上、「みなし知事」となり、同年625日に行われた沖縄県知事選挙によって正式に、屋良は初代沖縄県知事となった(写真は、1968年秋に発足した官邸写真室が公式カメラで撮影したものと考えられる、読谷村村立図書館所蔵。以下の屋良朝苗日誌と佐藤日記参照)。

屋良朝苗日誌(抜粋) 昭和四十六年十一月十八日(木)曇

(略)十一時、総ム長官に会う。十二時半頃まで話す。建議書は既に読んで居られた。私の気持ちは分かってもらえたはず。議長方に会う前に総理に会った方がよいとの判断で電話連絡。一時半に山中長官の案内で会う事になる。はじめは渋って居られた様だ。建議書の外に第四雇用者の陳情書、毒ガス撤去の時の休業補償の件、差損補償の件等話し合う。昼食を総理府の食堂でとり、一時半から約三十分総理に会い、最高責任者たる総理に昨日の無茶な強行採決に抗議し、今後沖縄問題については責任をもってその不安、疑惑に応えてくれと強く要請する。沖縄を戦争の危機にさらす様な事は絶対にないと云って居られた。(略)

佐藤栄作日記(抜粋) 昭和四十六年十一月十八日 

(略)官邸に移ってから平泉君があいさつに来る。又午後一時半には琉球主席屋良朝苗君が山中長官と共に陳情にやって来る。約三十分。屋良君は衆参両院議長に順次同様の陳情。