和解学の創成

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極めて重要な概念についての問題提起ありがとうございました。李成鏞(ニュージーランド・オタゴ大学)「闘技的複数主義:社会的和解を希求するための枠組」

新領域和解学には様々な側面がありますが、本エッセイでは国内レベルにおける和解に焦点を当て、アジアの国々における、国内の和解プロセスの醸成及びその限界について、闘技的複数主義という枠組で考察します。これまで、アジアの多くの国々では様々な社会的闘争がありました。例えば、武力闘争から宗教的文化的闘争に至るまでの様々な紛争がフィリピンのミンダナオ島やタイ南部でありました。また、台湾や日本では民族的マイノリティーへの認知度の低さなどに起因する問題があります。これまでに異なるグループ間の闘争について様々な解決の努力がなされてきましたが、その安全保障環境は不安定であり、社会的マイノリティーの政治的影響力は弱く、政府の権限が強力であることなど今でも多くの問題が残されています。つまり、これらの問題が解決を難しくしているのです。

その中でも広く認められる問題の一つは、社会的和解プロセスにおける「支配された物語」にあります。人々の解釈や見方が、様々な地域における社会的、文化的、実践的状況に影響され制限されることは自明のことです。そのため、このような闘争を共時的に経験することによって、異なるグループの人々がその闘争に対し、それぞれ独自の理解を作り上げてしまうのです。そのため、闘争の「真実」を巡って様々な物語が出来上がってしまいます。例えば、1989年にカンボジア内戦が終結した際、ベトナムは、ベトナム軍のカンボジア領からの完全撤退を宣言しました。それにも関わらず、多くのクメール・ルージュの武装要員たちは、ベトナム兵士はただ単に制服を脱いだに過ぎず、引き続きカンボジア領内に留まると信じました。そのために、多くの一般市民がクメール・ルージュの武装組織に大量に殺害された際には、人々がそれを大量虐殺だと信じたのに対し、クメール・ルージュの司令官は、ベトナム兵による大量の粛清だと信じたのです。他にも韓国の済州島事件にもこのような例をみることができます。1948年から1949年にかけての一連の共産主義者による反乱と韓国政府軍の弾圧事件は、少なくとも14,000人の犠牲者を生みました。反乱を起こした側は、この事件について、政府軍による残虐な殺戮事件であり非人道的なものでると解釈しました。その一方で、右派は共産主義者による破壊行為が失敗に終わったものであると主張したのです。

和解の言説の問題とは、アジアの多くの国々の国内レベルで、組織や団体(多くの場合国家)が、表現の自由を弾圧し議論を呼ぶ異なる意見に圧力をかけることにあります。表現の自由の弾圧は、支配層が一つの物語を選択して、それを歴史として既成事実化するという形をしばしばとります。カンボジア内戦の後では、フン・セン政府の反クメール・ルージュ論が一般に広く浸透し、政府の作り上げた物語を強固なものにするためのプロパガンダとして重要な役割を果たしました。その他によく見受けられる弾圧の形としては、更なる社会的緊張の発現を防ぐために、事件の真相を意味付けせずに曖昧のままにしておくいうものがあります。韓国の済州島で起こった、1948年から1949年にかけての一連の殺害事件は、その正式な名称が何の説明もないまま「4.3(あるいは、4月3日事件)」とされています。このような例では、社会的闘争の和解を促進し、人々の記憶から事件を忘れ去らせ、未来に向かうようにもっていきます。

しかしながら、一つの物語だけを流布し、あるいは、水面下に議論を追いやることは和解においてどのような影響をもたらすのでしょうか。韓国の済州島やカンボジア内戦に関する研究は、数十年が経過した現在においても人々の間にそれぞれの物語が存在し、彼らの体験した真実が広く社会に認知されていないという不安を内包したままになっています。過去の出来事に意味づけをする際に一つの歴史的物語に固執するよりも、我々は彼らの和解を促進するために、人々に様々な見方が存在することを表現できる、意見交換をすることのできる場を提供する必要があるのではないかと考えます。

学問的理論の「闘技的複数主義」は、一つの物語で占められることの問題点への理解を深めることに寄与するものです。闘技的複数主義は、もう一つの熟議民主主義の概念の発展のために、最初に提唱されました。熟議民主主義は市民の志向、意見のあるべき形として、公共討議を通して、社会が互いの問題を超えてコンセンサスを得られることを想定しています。闘技的民主主義、あるいは闘技的複数主義は、逆に人々の闘争のための社会的行動を承認し、良しとするものです。シャンタル・ムフなど、闘技的複数主義の提案者によれば、コンセンサスや共通認識の構築はむしろ難しく脆弱なものになるとしています。そして、不確かな政治的活動による合意は、良好な関係構築のための正常な倫理的前提条件であるべきではないとしています。つまり、民主主義社会では、市民が公共生活をおくる中で自由闊達な論争があるべきだとしているのです。[1]

次に、闘技的複数主義は、微妙に異なる方向性を持つ和解の促進にどのような発展の機会をもたらすのでしょうか。ここに、私は先のシンポジウムにおけるバラック・クシュナー氏の講演に沿って三つの点を挙げたいと思います。

まず一つ目は、闘技的見方は国家主導による社会的和解のプロセスの見直しが必要であることを教え、またそこには複数主義の物語が存在することを我々に教えてくれます。国家主導によるやり方は、しばしば社会的マイノリティーの意見を軽視します。また、「解決をもたらす」ためとか、「国民を癒す」ため、あるいは「共同体復活させる」ためといって、「社会的調和」の必要を強調します。[2]多元的な社会的活動家の異なる活動の発展や和解のための計画が、彼らの属する国家の正義や和解の在り方に則って、展開することを余儀なくされます。異なるグループが裁くことを目的とせず、それぞれに意見交換を通して相互理解が促進されるようにすることは全く正しいことです。この点において、異なる視点の交流を促す多元的方法は、地域的機能を象徴しているものですが、もっと促進されるべきものです。多くの社会的和解は、この多元的機能にみられるような、様々な異なる見方が存在することを無視して、中央集権化した形で行われています。例えば、内戦終結後の東チモールになどにこの現象がみられます。

二つ目は、闘技的複数主義の適応は、人々の間で相手と和解するために、各々の解決策を見出だすように促します。闘技的複数主義は、人々に社会には常に闘争があることを自覚させるのです。熟議民主主義における、高い次元での和解は、過去をどう解釈するかという点について合意することが求められます。いずれにしても、著しい合意を求めることは、和解を促すよりも却って闘争を煽ることにつながります。なぜならば、高い次元での和解は、「我々の」物語を「彼ら」に受け入れさせることを要求するからです。更に、社会生活における闘争性の軽視は、しばしば相手方にある内なる複数性に対する無視にも結びついています。このような状況下では、人々はしばしば極右的な人物による挑戦的な言説が全ての社会的集団の見方を反映していると捉えてしまいがちになります。そして、全ての過程において社会的和解が成立したものだと見なしてしまいます。この点において、闘技的複数主義の適応こそが、私たちの考え得る社会的和解を現実的なものにし、有益なゴールへと向かわせる手段となるのではないかと思うのです。

三つ目はこれまでのポイントに関連していますが、闘技的複数主義は、和解に到達することよりも和解のプロセスに重きを置いているということがいえます。つまり、闘技的複数主義は、社会闘争において多様な意見が存在することを認め、歴史論争の解決には慎重な行動が求められていることを示唆しているのです。これらのことは、それぞれのコミュニテイーの社会的、構造的、文化的な要素を反映しているといえます。異なる社会的グループによる激しいプロパガンダは、つまり、駆り立てるような政治的な言説は、むしろ、社会的な闘争を煽る結果となります。なぜならば、人々は自分たちが信じていることに対して矛盾を生じさせるような意見に関しては、不快感を覚えるからです。戦後の和平調停の多くに見られるように、激しい暴力闘争の直後に様々に異なる意見を述べ合うことは、却って争いのリスクを高めることになります。しかし、これまでの研究は、コミュニケーション不足による社会的な偏見や憎しみも紛争のリスクを高めることを証明しています。そのため、一度限りの出来事でもって社会的和解を一気に達成しようとするような野心は慎むべきなのです。その代わりに、闘技的複数主義は、異なる意見に対して必ず同意を求めるのではなく、むしろ異なる意見を学び理解するための空間を提供します。このような斬進的なプロセスこそが、異なる社会集団間の平和的共存のための、そして、国内の和解のための相互理解を促進するものであるといえます。

私の議論の第一の焦点が国内の社会的和解であったとしても、熟議民主主義のイデオロギーに見られる中央集権的な和解のプロセスの限界は、これまでに述べてきた事件や出来事に関する国家間の和解の試みにおいても顕著となっています。例えば、中国や韓国、日本の和解に対する一般社会の認識では、それぞれの社会において唯一独自の見解に支配されてしまっており、更に東アジア地域で現実的ではない高いレベルでの和解を求めているがために、却って異なる社会の異なる意見を認めることができなくなっています。つまり、多様な社会の存在を無視しているのです。私は、この原因の一つに、東アジアにおける和解の在り方が言葉や言説に囚われすぎており、現実性に欠けているからだと考えています。この点において、闘技的複数主義は国内問題に限定されるものではないのです。

よって、闘技的複数主義が様々な文脈を体現しているアジアにおいて、この地域の社会的和解のプロセスに適応できるのかどうか検証する更なる実証研究が求められます。いずれにしても、和解を観察することの枠組として、闘技的複数主義は、我々に様々な社会的集団が彼らの独自の意見を述べることを促します。そして、全く異なる意見を持つその他の社会集団とどのように共存を図るのか、それについて学ぶことの重要性を強調しているのです。更に、闘技的複数主義は、平和的共存と相互尊重を抜きにして、あまりに強く「一つの国家」や「社会的統合」といった言説を強調することは、更なる社会的暴力を誘引するとの警鐘をも鳴らしているのです。

 

【本稿の概要は『ワセダアジアレビュー』2019年第21号に掲載されている】(原文英語(英語HPを参照)、日本語は浅野豊美訳)

 

[1] See for example, Chantal Mouffe (1999) Deliberative democracy or agonistic pluralism?, Social Research 66 (3): 745-758; Rosemary Shinko (2008) Agonistic Peace: A Postmodern Reading, Millennium – Journal of International Studies 36 (3): 473-491; Andrew Schaap (2006) Agonism in divided societies, Philosophy & Social Criticism 32 (2): 255-277.

[2]  Andrew Schaap (2006) Agonism in divided societies, Philosophy & Social Criticism 32 (2): 258.